勝海舟と円谷英二  1868年から1968年にタイムトラベル

江戸を戦火から救った海舟

咸臨丸の艦長として初めての太平洋横断往復の成功、神戸海軍操練所を開設し海軍軍人の育成など輝かしい業績を残した勝海舟。

海舟は、1859年から1868年、1872年から亡くなる1899年まで赤坂で暮らしました。

勝海舟の最大の功労は1868年3月の江戸城無血開城です。旧幕勢力と新政府による戊辰戦争。官軍の江戸城総攻撃を前に、旧幕府の代表として新政府の西郷隆盛と談判を重ね、無血開城を決断。街を戦火から救います。

開城後、明治天皇は、江戸に行幸し、江戸を東京に改称し近代国家の幕が開きます。

1899年に海舟は「これでおしまい」という言葉を遺して世を去ります。海舟が晩年に祈念した平和に逆行して日本は軍国の道を歩みます。

戊辰戦争の激戦地で生まれた円谷英二

勝海舟の死から2年後の1901年、円谷英二が戊辰戦争の激戦地、福島県須賀川で生まれました。

円谷英二はウォルト・ディズニーと同じ年に生まれ、1919年にカメラマンとして映画界に入ります。

特殊技術を志しましたが、当時の映画人には特撮の価値が理解されず、不遇の時代が続きました。

しかし、子母澤寛の大河小説『勝海舟』の連載が始まった1941年、円谷英二に転機が訪れます。12月8日の真珠湾攻撃です。海舟が育てた海軍の連合艦隊がハワイの真珠湾を目指すこととなります。

真珠湾攻撃とマレー沖海戦を描いた『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)で円谷英二は真価を発揮しました。その実写と見まがう描写が話題となり、日本映画界に特撮の重要性を知らしめました。

空想特撮ドラマ『ウルトラマン』誕生

1954年、53歳の時に、日本初の本格特撮怪獣映画『ゴジラ』でリアリズムを追求する本多猪四郎(1911-1993)の映像を支えます。本多猪四郎との名コンビで、“東宝特撮”を不動のものとします。

しかし、映画は斜陽の時代を迎えます。円谷英二は1963年に円谷特技プロダクションを設立し、テレビの世界に活路を見い出します。新たな舞台は赤坂のTBSです。

1966年1月2日、初の空想特撮ドラマウルトラQ』が放映され好評を博します。7月に満を持して「変身する巨大ヒーロー」というコンセプトの『ウルトラマン』を世に問います。第37話「小さな英雄」は42.8%という高視聴率を記録します。

明治維新から100年。1967年5月14日、今上天皇(1960-)は、ご幼少の頃、初めてのお買い物で『図解怪獣図鑑』を購入されました。

この報道で特撮が世の中に認知されます。円谷英二の名は人々に知れ渡り「特撮の神様」と呼ばれます。

1970年、円谷英二は世を去ります。映画『シンゴジラ』『シンウルトラマン』は大ヒットし、『ウルトラマン』はNetflixでアニメ『ULTRAMAN』となって世界に配信されています。

アクセス
  

【勝海舟邸跡】港区赤坂6-10-41

【TBS放送センター】都港区赤坂5-3-6

◯最寄り駅はすべて 東京メトロ千代田線「赤坂駅」