荷風先生はすべてお見通し 永井荷風の慧眼

耽美にして無頼。2つの顔を持つ 永井荷風

永井荷風は、谷崎潤一郎(1866ー1965)とともに、明治から昭和にかけて長い間耽美派の代表的な作家として文壇を牽引しました。

1905年にはアメリカ、1908年にはフランスで生活しながら『あめりか物語』(1908)と『ふらんす物語』(1909)を発表しました。しかし『ふらんす物語』は発禁処分を受け、1915年にようやく刊行されます。

1911年の大逆事件をきっかけに、耽美的な傾向から一変し、荷風は反時代的な姿勢を貫きました。

荷風先生が愛した街

1920年には麻布市兵衛町(現:六本木1丁目)に木造二階建ての洋館を新築し、外壁にペンキ塗装を施しました。そして、自らペンキをもじってその洋館を偏奇館と名付けます。

この場所で荷風は充実した日々を送り、『つゆのあとさき』(1931)や『墨東綺譚』(1937)などの代表作を執筆しました。

偏奇館の近くにあった山形ホテルは、荷風お気に入りのホテルでした。


1923年9月1日、荷風は、昼食を取るために向かった山形ホテルで関東大震災に遭いました。日記『断腸亭日乗』には次のように記されています。

昼餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動歇まざるを以て内に入ること能はず。

盟友の谷崎潤一郎は震災を機に関西へ移住しましたが、幸いにも偏奇館は焼失を免れ、荷風は東京で暮らし続けました。

アメリカ軍の街 六本木

しかし、1945年3月10日の東京大空襲で偏奇館は焼失します。荷風に残ったのは、たった一つの鞄だけです。そして8月15日、敗戦を迎えました。

千代田区の第一生命ビルにGHQ(連合国軍総司令部)が置かれ、日本は若き日に荷風が過ごしたアメリカの占領下となります。

荷風が去った六本木は、GHQの関連施設が集まるアメリカ軍の街に変わっていきます。

1946年2月、連合国軍総司令部と日本国政府との間で日本国憲法の草案について話し合われた場所(日本国憲法草案審議の地)は、荷風が愛した偏奇館と山形ホテルの目と鼻の先です。

なお、日本国憲法草案や東京裁判の判決文が書かれた場所は、GHQに接収された白金の服部時計店(現:セイコーホールディングス)の創業者である服部金太郎(1860-1934)の邸宅でした。

1947年5月3日、荷風は、日本国憲法が施行され、世の中が熱狂する中、鋭い慧眼で日記『断腸亭日乗』にこう記します。

雨。米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし

荷風先生の老後

荷風は、東京を離れて千葉県市川市八幡で過ごしました。1952年には文化勲章を受章し、1954年には芸術院会員に選ばれました。1957年には市川市八幡に土地を購入し、12坪の家を新築して独りで暮らしました。

そして、1959年4月29日、馴染みの食堂で天丼を食べた後、帰宅して翌30日に独りでこの世を去りました。

1917年9月17日から死の前日の1959年4月29日まで40年にわたって書き続けた日記『断腸亭日乗』には、冒頭から墓の準備や遺産整理など、“終活”に勤しむ荷風の姿が綴られています。

葬儀も墓も無用という生前の荷風の意思に反し、文壇での業績が讃えられ天皇陛下より祭祀料を賜り、文化勲章を飾った祭壇で葬儀が行われました。墓も建立され荷風は、雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)に眠ります。

葬儀や墓の建立を望まなかった荷風の存在と作品は、永遠に私たちの心に生き続けています。