ファンの心に刻まれた健さん 60年代 東映の戦わずして勝つ競争戦略

死んで貰います

特別篇 東映の戦わないSTP競争戦略

健さんとマーケティングって何の関係あるの?

映画館 毎日続く 閑古鳥

高倉健(1931-2012)が、多くのファンの心を掴んだ背景には、60年代にテレビの台頭と看板の時代劇の失速という2つの危機に直面した東映のマーケティング戦略があります。

1956年、高倉健は『電光空手打ち』でデビューします。その翌年の1957年から1960年まで日本の映画人口は 10億人を超えていました。ピークは1958年の1,127,452,000人です。ところが1953年に放送が開始されたテレビの影響で、1963年には半分の5億人、1967年には3億人と衰退します。

東映は、映画が斜陽を迎えた1960年代に、高倉健を柱に不良感度路線で、テレビや競合の東宝、大映、松竹、日活との差別化を図り1963年から1970年代初頭まで邦画界でトップの座に君臨しました。

映画館に来るお客様を大事にせなあかん!

「テレビに子供と主婦と年寄りを根こそぎ取られた。今、劇場に来ているのは青年と30以上の男だけや。もう『ご家族揃って』の善良な映画では客は入らんで」  東映の岡田茂(1924-2011)は、1964年に路線改革を決断します。

岡田茂ら東映の首脳陣は、いたずらに観客動員を追わず、映画館に来てくれる青年層30代以上の男性に的を絞り、彼らの心に突き刺さるテーマを模索します。

東映には、繁栄を築いたマキノ光男(1909-1957)が打ち出した伝説の“ヒットの三要素 ”があります。「泣く、笑う、手に汗握る」です。岡田茂は、新たに「覗く」という要素を加えます。

人間には好奇心があります。岡田茂が着目したのは、日常では覗くことができない「任侠の世界」です。東映が社運を賭けた新路線『不良感度路線』は「ご家族揃って東映映画」とは正反対のポジショニングです。


さて「市場の中の誰に対してどのような価値を提供するのか?」を構築する『STP』は王道のマーケティング手法です。つまり売上を伸ばす可能性の高いお客様を見つけるために市場の中を仕分けするセグメンテーション、その中からお客様を絞り込むターゲティング、そのお客様に唯一無二の価値体験を提供するポジショニング です。

東映は『STP』が定着していない時代に、テレビに流れた女性や高齢者を外し(セグメンテーション)、テレビに取り込まれない観客層に絞り込み(ターゲティング)、「不良性感度」という独自の路線(ポジショニング)で、当時の映画界に不動の地位を築きました。

さらに東映は「不良感度路線」を推進する一方で、次の戦略を始動させます。他社に先駆けいち早くテレビ制作部門を立ち上げます。

新路線に馴染めないスタッフは、映画で培ったノウハウをテレビに生かし、家族揃って愉しめる数多くの人気時代劇を生み出します。

また子供たちのためにアニメーション制作に力を入れ、高畑勲(1935-2018)、宮崎駿(1941-)ら世界的巨匠を輩出するきっかけを作りました。

健さんのように 肩で風切る 映画ファン

「その目や」 決め手は強い目力です。岡田茂が「不良感度路線」を担うスターに抜擢したのが、実力がありながら役柄に恵まれず低迷が続く中堅俳優高倉健です。

敵の理不尽な振る舞いにひたすら耐え抜き、ついに勘忍袋の緒が切れ、敵対する一家に殴り込むアウトロー。高倉健が扮する不器用で真っ直ぐな主人公の姿に、組織内での競争や人間関係に疲弊するサラリーマンや学生運動に身を投じる大学生は感情移入し、映画館は擬似体験できる場と化しました。

ファンを虜にした任侠の世界は当時のテレビでは放送できないテーマです。1968年には、興行収入の年間新記録を更新する劇場が相次ぎ独走状態となります。この年、観客のニーズに合わせオールナイト興行という上映方式を導入します。

映画を観終わったファンは、全員健さんのように肩で風を切って映画館を出たのは映画史に残る有名なエピソードです。

「死んで貰います」 スクリーンでは、ドスを手に血みどろの抗争を描いた東映が取った戦略は、テレビを相手にライバルの映画会社が激しい戦いを繰り広げる中、戦わずして勝つ「ブルーオーシャン戦略」でした。

高倉健の没後10年にあたる2022年。東映は10月7日に2022年の年間興行収入が220億円を突破し、年間興行収入歴代新記録を達成したことを発表しました。

参考文献
 

フィリップ・コトラー、ケビン・ケラー「マーケティングマネジメント」(丸善出版部)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(東洋経済新報社)

岡田茂「悔いなきわが映画人生 東映と共に歩んだ50年」(財界研究所)

春日太一「あかんやつら東映京都撮影所血風録」(文藝春秋)