虎ノ門交差点ヒストリー

虎ノ門を見守る“虎”


虎ノ門1丁目交差点(東京メトロ銀座線虎ノ門駅8番出口)に「虎ノ門遺址」と名付けられた石碑と、その上部に設置された虎の像があります。1949年に、町名が“芝今入町”から“芝虎ノ門”に改称されました。3年後の1952年に、町名改称3周年を記念して、町内会虎ノ門会の有志によって建てられました。

戦後の復興に成功し、高度経済成長に向けて加速し始める時代から、虎ノ門ヒルズ、東京虎ノ門グローバルスクエアなど大規模オフィスビルが林立する今日まで、虎ノ門の“シンボル”として街の時代の趨勢を見守ってきました。では、虎の門交差点付近での歴史上の出来事を振り返ってみましょう。

事件の舞台となった虎の門交差点

虎ノ門交差点近くの虎ノ門三井ビルの前に「江藤新平君遭難遺址碑」があります。

「江藤新平君遭難遺址碑」
 1870年、明治政府の重鎮、江藤新平はこの地で刺客に襲われます。一命を取り止めた江藤新平は、1872年に初代司法卿(現在の法務大臣)となり、日本の司法制度や警察機構の整備に尽力しました。「指名手配写真」を導入したのも江藤新平です。

1873年、征韓論争に敗れて下野、政府に叛旗を翻し、佐賀の乱を起こし敗れます。

司法卿から一転追われる立場になった江藤新平は、逃亡中に、司法卿時代、自らが導入した「指名手配写真」が決め手となり捕縛されます。

江藤新平は、政府内で確執のあった大久保利通の命令で、佐賀に臨時裁判所が設置された臨で、かつての部下である裁判長河野敏鎌により、明治の世では禁止されていた斬罪梟首の判決が下されました。これは、江藤自らが心血を注ぎ創設した裁判制度を、無視したものでした。民主主義のあり方が問われる近年、三権分立や身分制度の解消などに尽力した江藤新平の功績が改めて評価されています。

1923(大正12)年12月27日、摂政宮であった昭和天皇(1901-1989)が帝国議会開院式に向かう途中、虎ノ門交差点で無政府主義者 難波大助に狙撃されます。

帝都を震撼させたテロ事件
 

時の山本権兵衛内閣は総辞職。警備責任者、正力松太郎(1885-1969)も引責辞職し新聞界に転身します。翌年の1924年、38歳で読売新聞社長となった松太郎は、わずか発行部数4万部足らずの弱小新聞を、大衆のニーズを常にキャッチし共感を呼ぶマーケティング手法で、再建し世界最大の部数を誇る新聞社に再生します。

虎ノ門交差点

讀賣巨人軍を創設し日本にプロ野球を定着させ、戦後、街頭にテレビを設置し、テレビの普及に尽力します。虎の門事件がなければ、日本のメディア史は大きく変わっていたことでしょう。

参考資料

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)