昔からあるギブアンドテイクのルールが生む利益
恩恵をお金に変えるマーケティング手法
返報性の原理は、他者から恩恵を受けた時、恩恵に対する感謝の気持ちから「お返しをしなければならない」という心理が生まれる現象です。
他者から恩恵を受けた場合、恩恵に対する感謝の気持ちから「お返しをしなければならない」という心理が生まれる現象
経済学の父 アダム・スミス(1723-1790)は『道徳感情論』(1759年)の中で、人と恩恵の関係について、こう説いています。
恩を受けた人は恩を返済できるまで良心が疼き、その心理的負い目を払拭するために次は自分がお返しをする。この行為の繰り返しで、思いやりが溢れるよりよい社会が築けるのだ
そして、150年後、ロシアの革命家であるピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン(1842-1921)は『相互扶助論』(1902年)で、「生物や社会の進化の要因は生存競争ではなく、相互に恩恵のある協力関係である」と主張しました。
歴史を遡るとお互いに助け合い支え合う相互互助(ギブアンドテイク)の精神に行き着くことがわかります。やがて恩恵は、経済の進化とともに、お金に変えるマーケティング手法に結びついていきます。
無料とは決していえない試供品
長い歴史を持つ販促手法が試食販売です。アメリカの社会心理学者 ロバート・B・チャルディーニ(1945-)は、著書『影響力の武器』の中で、試食販売の効果を記しています。
大手小売り企業のコストコ社の販売データによれば、ビール、チーズ、冷凍ピザ、リップスティックなど、あらゆる種類の製品が無料サンプルのおかげで大きく売り上げを伸ばしています。購入者のほとんど全員が、サンプル品を受け取った人なのです。
では、試食品を受け取る側の心理はどうでしょう? 食通として知られる漫画家の東海林さだお(1937-)は、エッセイ『あれも食いたい これも食いたい』の中で、試食コーナーでの心境を次のように綴っています。
これを食べたら もうのがれることはできないなぁ
人は、試食品を貰うと、空のカップだけ返して立ち去りづらいと感じます。試食した商品が、気に入らなくても購入する不合理な行動を取ることがあります。
その理由は、人には「受けた恩恵はお返しをしなければならない」という経験則の下で直感的に判断する本能があるからです。
この本能が、行動経済学の始祖 ダニエル・カーネマン(1934-2024)とエイモス・トヴェルスキー(1936-1996)が突き止めた経験則に基づき直感で素早く判断を下すヒューリスティック(直感思考)です。
試食販売の手法は、「1月無料お試しキャンペーン」などに応用されています。義理や人情が尊重される日本では、借りがある場合や恩を受けた場合には、お返しをすることが重要視されます。返報性の原理をマーケティングに活用することで、収益を向上させる可能性が高まります。
1933年、金田一耕助でおなじみの横溝正史は病いに倒れます。執筆不能となった横溝正史の穴を埋めた作品が『黒死館殺人事件』や『人外魔境』で一時代を築いた小栗虫太郎のデビュー作『完全犯罪』です。
「小栗君には恩があるんや」 1946年、45歳で急逝した小栗虫太郎に代わり、今度は横溝正史が追悼と恩返しの気持ちで連載を引き受けます。この時に生まれた作品が、探偵小説史に残る不朽の名作『蝶々殺人事件』です。
恩を返すことで人との絆が深まり、新たな才能や価値が生まれることを、このエピソードが物語っています。
アダム・スミス『道徳感情論』(講談社)
ロバート・B・チャルディー二『影響力の武器』(誠信書房)
ジェシー・ノーマン 『アダム・スミス 共感の経済学』(早川書房)
ブレイディみかこ『他者の靴を履くアナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋)
東海林さだお『貧乏大好き』(大和書房)
横溝正史『日下三蔵編 横溝正史エッセイコレクション3』(柏書房)