乃木坂 六本木で 名優仲代達矢の軌跡を辿る

乃木邸

1912年9月13日午後8時、明治天皇御大葬の日。明治天皇の霊柩の皇居出立を告げる弔砲を聞きながら陸軍大将 乃木希典(1849-1912)と妻静子(1859-1912)は、赤坂新坂町の自邸で自刃します。

乃木夫妻の自刃から40年後の1952年。乃木邸沿いの外苑東通りを六本木に向けて走る若者がいました。この若者の名は、のちに日本屈指の名優となる仲代達矢(1932-)です。仲代達矢は、役者修行のために渋谷駅から六本木の俳優座養成所までの道のりを走って通いました。

『乃木邸』
 1902年に建てられた赤坂8丁目の『乃木邸』は現在も遺されています。

乃木自らの設計による建物の外観は黒塗りの板張りで、室内もシンプルで合理的な空間が設計されています。乃木邸隣の乃木神社には乃木夫妻が祀られており、2人は、乃木邸からほど近い青山霊園(墓所:1種ロ10号26側)に眠ります。

『俳優座劇場』
『俳優座劇場』は、仲代達矢の師である青山杉作(1889-1956)、千田是也(1904-1994)、小沢栄太郎(1909-1988)、東野英治郎(1907-1994)らの「劇場を自らの手によって建てたい」という情熱の元に1954年4月20日に開場しました。

現在の建物は1980年に建てられたものです。

乃木の殉死と漱石の『こころ』

乃木希典は 1904年の日露戦争で、陸軍第3軍司令官として指揮を執ります。旅順要塞に阻まれ苦戦を強いられる中、明治天皇の信頼を受けた乃木の第3軍は奮闘し、最大の難関「二百三高地」を攻略し日本を勝利に導きます。

1907年、乃木希典は、明治天皇より第10代 学習院院長に任じられ、日本の未来を担う子供たちを育成します。しかし子供たちを待ち受ける未来は戦争への道でした。日露戦争の勝利で、満州の権益を得た日本の目は、大陸へと向けられます。乃木夫妻の自刃から24年後の1931年9月18日に満洲事変が勃発します。

乃木夫妻の殉死は、当時の知識人に大きな影響を与えました。明治の始まる1年前に生まれた文豪 夏目漱石(1867-1912)もその1人です。1910年に生死の間を彷徨う「修善寺の大患」を体験し、心境的変化が生じていた漱石は、乃木夫妻の殉死に強い衝撃を受け、“武士道”に魅入られます。明治を丸ごと生きた漱石は、1914年に”明治“という時代に訣別するために『こころ』を執筆しました。

『こころ』を書き上げた漱石は、『道草』(1915年)を経て、『明暗』の執筆に取り掛かりますが1916年12月9日49歳で世を去ります。人間の愛情や憎悪、欲望、嫉妬など人間の『こころ』を追求した生涯でした。その集大成といえる大作『明暗』は未完に終わります。

明治を生きた乃木と漱石を演じた仲代達矢

満州事変の翌年に生まれた仲代達矢は、戦後、俳優を志し1952年に「俳優座養成所」に入所します。卒業後の1955年に「俳優座」に入座した仲代達矢は、映画監督 小林正樹(1916-1996)に見出されます。師である小林正樹をはじめ黒澤明(1910-1998)、岡本喜八(1924-2005)、五社英雄(1929-1992)ら日本映画黄金期の名匠の作品の常連俳優となります。

日本を代表する名優となった仲代達矢は『二百三高地』(1980)では、多くの戦死者を出した深い苦悩を表現し“人間・乃木希典”を熱演します。『吾輩は猫である』(1975)では、夏目漱石が自らをモデルにした苦沙弥役で『吾輩は猫である』を執筆する直前の繊細な漱石を演じました。

それぞれの今

乃木坂という名称は、乃木希典夫妻の殉死を悼み、改名されたことが起源です。乃木夫妻の殉死から60年後の1972年に開業した東京メトロ千代田線の新駅は「乃木坂」という駅名になりました。

乃木の名は、地名として遺され、漱石の『こころ』は、時代を超えて多くの読者に読み継がれています。

2022年、仲代達矢は、俳優生活70年を迎えます。仲代達矢の若き日のことばです。

少しくらい醜くてもいい長命でありたい。何とか生きながられて行きたいものだと無粋にも考えている

仲代達矢は、2015年に文化勲章を受章し、現在もなお、映画、舞台の第一線で活躍を続けています。


アクセス
  

【旧乃木邸】港区赤坂8-11-32 最寄り駅 東京メトロ千代田線「乃木坂駅」

【俳優座劇場】東京都港区六本木4-9-2 最寄り駅 東京メトロ日比谷線「六本木駅」

参考文献
 仲代達矢『未完。』(角川書店)

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)

司馬遼太郎『坂の上の雲』(文藝春秋)

春日太一『仲代達矢が語る映画黄金時代 完全版』(文藝春秋)