乃木希典と『こころ』赤坂8丁目

乃木希典(1849-1912)

日本の名優の若き日

1952年。乃木邸沿いの外苑東通りを六本木に向けて走る若者がいました。名優 仲代達矢(1932-)です。六本木交差点には「俳優座劇場」があります。仲代達矢は、俳優座養成所時代に、渋谷駅から俳優座劇場までの道のりを走って通いました。

1955年に「俳優座」に入座した仲代達矢は、小林正樹(1916-1996)に見出され『黒い河』(1957年)、『人間の條件』(1959〜1961)で映画界に進出。黒澤明(1910-1998)、岡本喜八(1924-2005)ら名匠の作品の常連俳優となります。

乃木希典夫妻の殉死

時代は、1952年から40年前に遡ります。明治天皇御大葬の日の1913年9月13日午後8時。明治天皇の霊柩の、皇居出立を告げる弔砲を聞きながら陸軍大将 乃木希典(1849-1912)と妻静子(1859-1912)は、赤坂新坂町の自邸で自刃します。

乃木希典は 1904年の日露戦争で、陸軍第3軍司令官として指揮を執ります。旅順要塞に阻まれ苦戦を強いられる中、明治天皇の信頼を受けた乃木の第3軍は奮闘し、最大の難関「二百三高地」を攻略し日本を勝利に導きます。

1907年、乃木希典は、明治天皇より第10代 学習院院長に任じられ、日本の未来を担う子供たちを育成します。しかし子供たちを待ち受ける未来は、戦争への道でした。乃木夫妻の自刃から24年後の1931年9月18日に満洲事変が勃発します。

漱石の『こころ』

乃木夫妻が殉死を遂げた同じ頃、弔砲を聞きながら、“明治”が永遠に去ったことを、強く感じた人物が、明治の始まる1年前に生まれた文豪 夏目漱石(1867-1912)です。

1910年に生死の間を彷徨う「修善寺の大患」を体験し、心境的変化が生じていた漱石は、乃木夫妻の殉死に強い衝撃を受け、明治以前の精神“武士道”に魅入られます。1914年に”明治“という時代に訣別するために『こころ』を執筆しました。

『こころ』を書き上げた漱石は、『道草』(1915年)を経て、『明暗』の執筆に取り掛かりますが1916年12月9日49歳で世を去ります。人間の愛情や憎悪、欲望、嫉妬など人間の『こころ』を追求した生涯でした。その集大成といえる大作『明暗』は未完に終わります。

乃木と漱石を演じた仲代達矢

日本を代表する名優となった仲代達矢は『二百三高地』(1980)では、多くの戦死者を出した深い苦悩を表現し“人間・乃木希典”を熱演します。『吾輩は猫である』(1975)では、夏目漱石が自らをモデルにした苦沙弥役で『吾輩は猫である』を執筆する直前の繊細な漱石を演じました。

赤坂を見守る乃木

乃木自らの設計により1902年に建てられた赤坂8丁目の乃木邸は現在も遺されています。外観は黒塗りの板張りで、室内もシンプルで合理的な空間が設計されています。緑溢れる庭内には馬小屋や「乃木将軍と辻占いの少年像」(写真)があります。

乃木邸隣の乃木神社には乃木夫妻が祀られており、乃木夫妻は、乃木邸からほど近い青山霊園(墓所:1種ロ10号26側)に眠ります。


「乃木将軍と辻占い少年像」秘話

陸軍大将 今村均(1886-1968)は太平洋戦争時、ラバウルに難攻不落の要塞を作り、孤立無援となった環境下で10万人の将兵の命を守ります。戦後は自ら望んで部下たちのいるニューギニアの収容所に入ります。帰国後、自宅に築いた「謹慎所」で生活して、戦没者の冥福を祈り続けました。乃木希典を敬愛する今村均は、1968年10月14日に、依頼を受けていた『乃木将軍と辻占い少年像』(写真)の像題の文字を揮毫し、揮毫を終えた夜に急逝します。連合国軍最高司令官 ダグラス・マッカーサー(1880-1964)に「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた」と評された今村均は「死」ではなく「生」を選び、自らの意思で贖罪の日々を送り続け、82年の生涯を閉じました。

ちなみに乃木坂という名称は、乃木希典夫妻の殉死を悼み、改名されたことが起源です。乃木夫妻の殉死から60年後の1972年に開業した東京メトロ千代田線の新駅は「乃木坂」という名称になりました。

乃木の名は、地名として遺され、漱石の『こころ』は、時代を超えて多くの読者に読み継がれ、仲代達矢は、2015年に文化勲章を受章し、現在も映画、舞台で活躍を続けています。

参考資料
 

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)

司馬遼太郎『坂の上の雲』(文藝春秋)

朝日新聞『みちものがたり仲代達矢』