いつの世も不安なのはお金
2024年7月3日、1万円札の肖像が福沢諭吉(1835〜1901)から渋沢栄一(1840〜1931)に交代しました。
“日本資本主義の父” 渋沢栄一。渋沢栄一といえば真っ先に思い浮かぶのが『論語と算盤』です。栄一は、本書で社会的使命を第一に事業を行い長期的利益を築く経営を説き、明治以降の近代日本経済の土台を築きました。
栄一は、76歳(1916年)の時に要職を退くまで500以上の企業の設立に関与し1882年には国の中央銀行 日本銀行の設立に尽力します。
さて、赤坂6丁目の赤坂氷川神社の裏に、黄土色の塀で囲まれた広大なお屋敷があります。

表札や銘板の類いはなく、外から内部を窺うことはできません。ここが銀行界や政界の最高首脳たちが集まり重要な協議が秘密裏に行われる日本銀行氷川分館です。

1990年代後半から2000年代前半の金融機関への公的資金注入、2008年のリーマン・ショックなど国の金融システムを揺るがす事態のたびに当局と金融機関の攻防が日本銀行氷川分館で繰り広げられました。
日本を震撼させた最大の金融危機といえば1946年2月の預金封鎖と新円切替です。時の大蔵大臣は、日本銀行総裁の経験もある栄一の孫 渋沢敬三(1896〜1963)です。
預金封鎖と新円は、深刻なインフレと食糧不足を緩和するために国民の持っている預金をすべて封鎖して、新しいお札を刷って新紙幣だけを使えるものにしようという驚天動地の施策です。
78年後の2024年、渋沢栄一の1万円札の発行に合わせるかのように物価高騰と米不足による「令和の米騒動」が発生しました。ネット上では「旧紙幣が使えなくなり預金封鎖される」というデマが拡散されました。渋沢栄一から孫の渋沢敬三(1896〜1963)が行った預金封鎖と新円切替が連想されたためでしょう。
いつの世も不安なのはお金です。栄一の意に反し、短期利益を求め道徳から外れた不正を行う一部の企業、日銀の発表に一喜一憂する個人投資家。栄一の目にどう映るでしょう?
平等なのは誰にも訪れる死のみ
一方、福沢諭吉(1834-1901)は、日本に西洋の思想を紹介し、自由平等を説いた“自由民権思想の父”として知られています。
しかし、現実の平等は『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という諭吉の理想とは程遠く、平等であるのは死のみと言えるかもしれません。
諭吉は、死に対して独自の考えを持っていました。生前、「自分が死んだとき湯灌などするに及ばぬ。衣服もとりかえるに及ばぬ。そのまま棺に納めてもらいたい。死顔を人に見せることはいやだ」と語り、家族もその意向に従いました。
諭吉が亡くなって76年後の1977年、諭吉の意に沿わぬ事態が起こります。常光寺から麻布善福寺に改葬する際に諭吉の墓を掘り起こしました。棺内の保存状態がよかったために遺体は屍蝋化し、顔は生前の面影を保っていました。
まさにタイムトラベルのような出来事ですが、「人に死顔を見せるな」と遺言した諭吉にとっては、不本意なことです。

さらに諭吉にとっては嘆かわしい事が追い討ちをかけます。自身の肖像が描かれた1万円札の発行です。バブル夜明け前の1984年11月1日のことです。
国からの叙勲を断わり生涯無位無冠を貫いた諭吉を考えると、自分の顔が最高額の紙幣に使われる事を知ったら立腹ものです。“1万円札の顔”という役割を終えた今、諭吉はお墓の下で安堵しているでしょう。
西洋の精神を重んじる福沢諭吉と論語の精神を大切にする渋沢栄一。身長173センチと当時としては長身だった諭吉に対し152センチと小柄な栄一。思想も外見も正反対の2人ですが、お互いの生き方と考えを尊重し尊敬し合う関係でした。
渋沢栄一と福沢諭吉が未来に伝えたかったこと、作りたかった社会と今日の現実。2人に思いを馳せながら、ゆかりの地を歩いてみるのも有意義な体験となるはずです。