森永太一郎(1865-1937)
森永製菓創業者
人生を変えた1粒のキャンデー
みんな、あの黄色い箱の「森永ミルクキャラメル」知ってるよね?
どこか懐かしい味。でもさ、まさかあの定番キャラメルが、“たった一粒のキャンディ”から始まったって知ってた?
1888年。今から130年以上も前のこと。森永製菓の創業者 森永太一郎さんは、地元・佐賀県の名産「伊万里焼」を売ろうと、単身アメリカに渡ったのよ。
そこで、街角で出会った見知らぬお姉さんからもらったのがキャンディ。これが、太一郎青年の運命を変えた“奇跡の一粒”だったの!
「な、なんて美味しいんだ〜!!」って、もう衝撃!
キャラメル、チョコ、ビスケット。西洋のお菓子の魅力にどっぷりハマった太一郎さんは、まさかの方向転換!
「俺、洋菓子職人になる!!」もはや神展開でしかないよね!
『森永ミルクキャラメル』爆誕鬼修行のアメリカ10年
太一郎さんはアメリカで本気の洋菓子鬼修行!異国で技術を盗み、味を学び、時代の先を見つめ続けたんだって。
そして1899年、ついに日本へ帰国!赤坂溜池に念願の「森永西洋菓子製造所」をオープン!パチパチパチ。
ここから、日本のお菓子の歴史が大きく動き始めるんだよ!
キャラメル爆誕、でも道のりは甘くない!
ホントはね、パチパチパチってうまくいかなかったの。
太一郎さん、日本初のキャラメルを開発。でも、当時の日本ではまだ乳製品ってあんまり馴染みがなかったから「バタくさい!(※いまは死語)」って敬遠されがち。
さらに、日本の高温多湿な気候ではすぐ溶けちゃうという問題も!でも太一郎さんはあきらめなかったの。
何度も何度も試行錯誤して、牛乳の量を増やしたり、配合を変えたり。そしてついに完成したのが、「森永ミルクキャラメル」。あの黄色い箱のロングセラーが、ここでついに誕生!やったね!
最強バディ、現る!
そして、1905年、ここに運命の仲間が現れたのよ。松崎半三郎さん!
この2人がタッグを組んで、まだ日本に馴染みのなかった“洋菓子”という未知のジャンルをどんどん切り開いていくの。
森永ミルクキャラメルの大ヒットをきっかけに、1912年、森永製菓に社名変更。機械を導入してたくさんのお菓子を作ったり、全国に商品を届けるしくみを強化したり。たった2坪の作業場から始まった森永製菓は、日本を代表するお菓子メーカーへと成長していったんだよ!
見て楽しい広告宣伝
どんなに美味しいお菓子も、知られなきゃ売れないじゃん。
それを一番わかってたのが、太一郎さん。
「どんなに良い品物でも、人に知られなくては売れないんだよ」っていう、この名言、まじマーケティングの神すぎるでしょ!
当時の宣伝リーダー・片岡俊郎さんとともに、「天下無敵 森永ミルクキャラメル」ってキャッチコピーを作ったり、大横綱・太刀山の手形を広告に使ったりと、思わず二度見しちゃうようなインパクトある広告が、次々と世に飛び出したのね。
空を飛ぶ広告!森永号参上
1931年、空を飛ぶ飛行機から、キャラメル引換券やビラをばらまくという前代未聞のプロモーションにみんな度肝を抜かれたわ。子どもたちには、景品の模型飛行機がバズりまくり!
さらにキャラメルの箱を使った「キャラメル藝術」の図画工作コンテストも開催!優秀校には奨励金も出すという、太っ腹っぷり!
いうこれって、いまでいうところの「リサイクル×アート×教育」のトリプル企画だよね!ほんと、時代の先行きすぎててビビっちゃう。
他にもね、森永スヰートガールっていう可愛い女の子を使った宣伝(これぞ元祖キャンペーンガール!)とか、時代を先取りした斬新な仕掛けを次々と打ち出したんだって!
かわいくて強い、エンゼルマークよ
みんな知ってるよね? 森永のトレードマーク、あの可愛いエンゼル!
実は1905年に、太一郎さんが自らデザインしたものなんだよ!
他の企業がそのマークを真似したときは、ちゃんと法的手段を使って徹底抗戦。太一郎さんはブランドイメージを命がけで守ったんだって!
一粒の奇跡が、文化をつくる
もし、あの時、若き日の太一郎さんがアメリカでキャンディをもらってなかったら?
森永ミルクキャラメルも、チョコも、ビスケットも、なかったかもしれない。そう考えると、あの“一粒のキャンディ”って、本当に奇跡だったんだよね。
人生ってさ、意外な出会いから、とんでもない未来が始まったりする。
あなたにとっての“一粒”は、どこで待ってると思う?
- 若山三郎『菓商 森永太一郎』(徳間書店)
- 北方謙三『望郷の道』(幻冬舎)