小倉昌男(1924-2005)
ヤマト運輸名誉会長(最終職)
物流維新──ヤマト運輸の逆襲!
敗者からのスタート
時は来た、ただそれだけだ!
敗者が、立ち上がった。
業界の片隅で燻っていた過去の存在、ヤマト運輸。
ヤマト運輸は、運送業界の後方集団に甘んじていた。
業界は法人向けの大口輸送が中心。
「個人配達? バカげてる!」
「あんなもん、赤字まっしぐらだろ!」
「効率悪すぎィ。郵便局と国鉄におまかせ!」
誰もが口を揃えた。
ある男が沈黙を破る。その男の名は小倉昌男。
ヤマト運輸社長。業界の敗残者。崖っぷちの経営者。
「これからは、個人の家から荷物を運ぶビジネスに全集中する!」
誰もが目をそらした赤字必至の地雷原。そこに、挑戦の旗を掲げた。
「無理だよ。小倉さん正気かよ」
サービス開始初日。荷物の数は、たったの11個。
もう一度いう。たったの11個。
笑われた。あざけられた。
だが、その11個が、未来の“基準”を創ることを、誰が予測できただろうか?
ブルーオーシャンの正体
ブルーオーシャンとは競争相手のいない未開拓の市場。
運送業界における“個人宅配”。
一見すると、ライバル不在の“ブルーオーシャン”。
しかし実態は違った。
- 電話が来なければ始まらない集荷
- 行く先は毎回異なる個人宅
- 不在に泣かされる再配達
- 国による配送の独占
そこは、誰も足を踏み入れたがらない地雷源。血で染まる未踏の戦場だった。
それでも、小倉は信じていた。
前に進んだ。
「誰もやらない? それは違うよ。誰も“できなかった”んだ!」
「それをヤマト運輸がやる!」
構想を阻む強大な敵
「お客様の“困った”に応えることが、ヤマト運輸の使命であり勝機になる」
小倉は“翌日配達”を宣言する。
そのためには、全国を網羅する物流ネットワークが必要だった。
ついに最大の敵が顔を見せた。
キバをむく郵政省・運輸省。
「ここは俺たちの牙城だ。邪魔はさせない」
国による規制が、小倉たちの構想を阻んだ。
「既得権益に立ち向かうということは、時に国家を相手にする覚悟を要する」
官VS.民の前例のないバトルだ!
圧力。規制。壁。
それでも小倉は屈しない。
風が変わった。
「郵便小包や国鉄小荷物は、いつになったら届くんだ!」
「明日、届かないとまずいんだよ」
官に対する国民のブーイングが小倉の背中を押した。
「こんなとき、ヤマトの宅急便があるじゃないか!」
「助かった、ありがとう」
宅急便への喜びの声。声。声。
大逆風が追い風に変わった瞬間。
小倉は勝った。
官に引導を渡した!
サービスが先、利益は後!
「私にはお客様がついている!」小倉は確信した。
運送業界の悪習複雑な料金体系に一石を投じた地帯別均一料金。
日本を9つの地域に分けた誰にでも分かりやすい料金システム。
このシンプルイズベストな発想が、利用者の拡大に繋がった。
社長! 俺たちがブランドだ!
宅急便が広がり始めると、もう一つの壁が現れた。
それは意外なことに社内にあった。
「俺は運転しかできねえっすよ…」
現場のドライバーの声。
彼らはただのドライバーだった。
しかし、お客様の「ありがとう」が、現場の空気を変えていく。
笑顔を届ける者。悩みを聞く者。地域の声に応える者。
「運転手さん」でなく名前で呼んでもらえた喜び。
「俺たちが“運ぶ”のは荷物だけじゃない、“想い”も届ける」
ドライバーはセールスドライバーという真のプロフェッショナルに!
やがて彼らは、“ヤマトの顔”となった。ブランドになった。
「人こそが、最大の財産だった」
小倉は感謝した。
たった11個から、年間17.9億個へ
1976年1月20日。
初日の取扱個数は、わずか11個。
しかし、口コミと信頼が少しずつ広がり、サービスは全国へ、そして社会の“インフラ”となっていく。
ヤマト運輸のセールスドライバーはおよそ6万人。
年間に運ぶ荷物は、およそ17.9億個にのぼる。
2026年、宅急便は50年を迎える。
小さな一歩が、社会を変える
敗者だった者が、頂点に立つ!
崖っぷちの経営者から日本屈指の名経営者へ。
成功の秘訣を小倉昌男は、著書『経営学』でこう語っている。
「差別化されたサービスと、お客様の口コミ。その基本を、徹底的にやり抜いただけです」
小倉昌男が語ったのは、どこまでもシンプルな“真理”。
非常識に挑んだ者たち。誰もが諦めた未来に、“道”を切り開いた人々。
挑んだ者にしか、見えない景色がある。
それが、宅急便の原点。
あなたは、次の“非常識”に挑めるか?
- 小倉昌男『経営学』(日経BP社)
- 小倉昌男『経営はロマンだ!』(日本経済出版)