虎ノ門で 420年の時をかける!

虎ノ門の歴史

虎の門のシンボル

虎ノ門は、江戸時代から武家や大名が暮らす街として発展してきました。明治維新後も政府要人が集う日本の中枢となりました。

今日も街の中心である虎ノ門交差点周辺には官公庁や企業が集まります。

現在、大規模な再開発事業が進行中で、新たな歴史が刻まれようとしています。では虎の門の旧跡で420年の歴史を振り返りましょう。

 虎ノ門の地名の由来である江戸城の虎ノ御門は、明治維新を迎えた1873年に取り壊されました。現在、虎ノ門交差点(東京メトロ銀座線虎ノ門駅8番出口)には「虎ノ門遺址」と名付けられた石碑が遺されています。

徳川栄華の象徴

文部科学省構内には、江戸城の外堀が残っています。1636年に家康の代から始まった江戸城整備の総仕上げとして、三代将軍徳川家光(1604-1651)が広大な外堀の石垣を命じました。家光は60家の大名を6組に分け、それぞれ区域を担当させ、現在の外堀通りに相当する全長14kmの石垣を築き上げました。この壮大な計画により、諸大名の財政は疲弊し、徳川の天下は盤石になりました。2008年の文部科学省新庁舎の完成に合わせて、敷地内の外堀跡の石垣が展示公開されています。

死刑になった初代法務大臣

1868年、栄華を誇った徳川幕府は崩壊し、明治政府が樹立されます。しかし、明治政府も権力闘争の場となりました。江藤新平(1834-1874)は日本の司法制度や警察機構の整備に尽力した人物ですが、権力闘争に敗れ、政府を追われます。彼は1873年に佐賀の乱を起こし、司法卿(現在の法務大臣)から一転して逃亡の身となりました。その逃亡中に彼自身が導入した「指名手配写真」が決め手となり、彼は捕縛され処刑されました。

虎ノ門事件と正力松太郎

世界最大の発行部数を誇る読売新聞は、この地で約200部からスタートしました。1874年11月2日、洋学者の子安峻らが設立した印刷会社 日就社が、虎ノ門で日本初の大衆向け新聞『読売新聞』を創刊しました。しかし1923年9月1日の関東大震災の影響で危機に立たされます。


虎ノ門で起きた一つの事件が読売新聞の窮地を救うことになります。1923年12月27日、無政府主義者の難波大助が帝国議会開院式に向かう途中、摂政宮であった昭和天皇(1901-1989)を狙撃した虎ノ門事件が発生しました。

この事件を受けて、時の山本権兵衛内閣は全閣僚が辞職し、警備責任者の正力松太郎(1885-1969)も引責辞職しました。

正力松太郎は内大臣の後藤新平(1857-1929)の助力を受けて新聞界に転身し、読売新聞の再建に尽力し、大きな新聞社に成長させました。

正力松太郎は、読売巨人軍を創設し、日本にプロ野球を定着させ、戦後には街頭にテレビを設置し、テレビの普及にも尽力しました。虎の門事件がなければ、日本のメディア史は大きく異なっていたことでしょう。

アクセス
  

【虎ノ門遺址史跡】港区虎ノ門1-1-28

【江戸城外堀跡石垣】千代田区霞が関3-1-2

【江藤新平君遭難遺址碑】千代田区霞が関3-8-1

【新聞創刊の地】港区虎ノ門1−2-7

◯最寄り駅はすべて 東京メトロ銀座線「虎ノ門駅」

参考文献

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)