日本に製菓市場を切り拓いた洋菓子のパイオニア 森永太一郎

森永太一郎(1865-1937)

森永製菓創業者

人生を変えた1粒のキャンデー

森永製菓創業者 森永太一郎は、キャラメルをはじめチョコレート、ビスケットなど洋菓子製造の技術を日本に導入し、製菓市場という新しいマーケットを築きました。

1888年、森永太一郎は郷里の名産 伊万里焼の陶器を売るために渡米します。しかし、アメリカで見知らぬ婦人からもらった一粒のキャンディーが、太一郎の運命を大きく変えます。

西洋の味に魅せられた太一郎は、製菓技術を学び「洋菓子の職人になろう」と決意します。

10年間のアメリカでの修業を終え帰国し、1899年に赤坂溜池で『森永西洋菓子製造所』を創業します。

『森永ミルクキャラメル』誕生

森永太一郎は帰国後、日本で最初のキャラメルを発売しますが、なかなか受け入れられませんでした。

しかし、時代の変化とともに乳製品が注目されるようになり、太一郎は苦心の末、乳製品の配合をアップした『森永ミルクキャラメル』を誕生させます。

1899年の発売から120年。究極のロングセラー、黄色い箱でお馴染みの『森永ミルクキャラメル』は、究極のロングセラーです。

時代を先取りしたマーケティング戦略

時代を先取りしたマーケティング戦略により、森永太一郎とともに洋菓子という未知のジャンルの市場を開拓した功労者が1905年に入社した松崎半三郎(1874-1961)です。

2人は、『森永ミルクキャラメル』の大ヒットを足掛かりに、1912年に商号を森永製菓に改め、個人商店から製菓メーカーへの転換を図ります。

機械化による大量生産や販売網の強化、そして『森永スヰートガール』を起用したプロモーションなど、先見性のあるマーケティング戦略を展開しました。

2坪の作業場からスタートした森永製菓は日本有数の製菓メーカーへと成長を遂げます。

どんなに良い品物でも、人に知られなくては売れないんだよ

広告宣伝の重要性を認識した森永太一郎は、大胆な広告プロモーションを展開しました。

「見て楽しい広告宣伝」をモットーに、宣伝部を率いる片岡俊郎(1882-1945)は「天下無敵 森永ミルクキャラメル」のキャッチコピーに第22代横綱太刀山(1877-1941)の手形をあしらうなどインパクト溢れる表現で次々とヒット広告を打ち出します。

1931年の飛行機「森永号」による、上空からビラやキャラメル引換券を投下する『日本縦断飛行キャンペーン』は、大きな話題を呼び、景品の模型飛行機は子供たちの間で人気を博します。

1932年からは、優秀な小学校に奨励金を与えるお菓子の空き箱を利用した図画工作展『キャラメル藝術』キャンペーンを展開します。子供の創造力の養成、リサイクル意識を啓蒙する現代でも通用するキャンペーンです。

また、森永太一郎は、社会貢献に尽力します。1923年の関東大震災の折には、森永太一郎自ら被災者救済の陣頭指揮を執り、芝公園でビスケットなどの菓子を被災者に配りました。

森永ブランドの確立

1905年に森永太一郎が創案したエンゼルマークは、『森永ミルクキャラメル』のシンボルとして親しまれ、ブランドの確立に大きく貢献しました。

他社からの模倣品に対しては、法的措置をとりブランドイメージを守り抜くことに成功しました。

こうして、森永太一郎と松崎半三郎の努力により、森永製菓は日本の製菓業界の先駆者として成長していきます。

参考文献
  • 若山三郎『菓商 森永太一郎』(徳間書店)
  • 北方謙三『望郷の道』(幻冬舎)