日本映画の黄金期を築いた“ラッパ ” 永田雅一の「活動屋魂」

永田雅一(1906-1985)

大映社長、映画プロデューサー、プロ野球球団オーナー

映画の魔力

ねぇねぇ、映画の世界ってさ、ぶっちゃけ超シビアな勝負の世界って知ってた? 1本映画作るたびに「大当たりした!」とか「大失敗しちゃった!」とか、結果がハッキリ出ちゃうんだよ。儲かったかどうかも、すぐバレるし、まじドキドキだよね!

だけどね、映画にはホント、不思議な力があるんだよ!

昔はさ、「テレビのせいで映画館から人がいなくなった!」とか言われたのに、今じゃそのテレビ局まで、せっせと映画作ってるじゃん?

んで、テレビからお客さんを奪ったはずのネット配信サービス会社も、こぞって映画作りに乗り出してるって、まじ意味わかんなくない? なんでだと思う?

それはね、映画が私たちに、ただの娯楽じゃなくて、心揺さぶる特別な感動とか、忘れられない体験をくれるからなんだよ! 一度その魅力にハマったら、もう夢中になっちゃう! まさに中毒性高めなビジネスってことだね!

映画に魅入られた男 永田雅一

そんな映画の魔力に、も〜っとっと魅せられちゃった男がいたんだよ! それが、日本の映画が一番輝いてた時代を築き上げた大映の社長、永田雅一さん! 周りからは「ラッパ」って呼ばれてたんだよ。

大映って、1942年に生まれて、1971年に倒れるまでに、なんと約1500本もの映画を作ったんだって! やばすぎでしょ!?

永田さんは戦後、大映を引っ張っていって、溝口健二とか市川崑とか、今じゃ伝説になってる監督たちの作品を世に送り出したんだ!

それだけじゃないよ! 京マチ子、若尾文子、市川雷蔵、勝新太郎なんて、名前聞くだけでワクワクするような大スターたちも、みんな大映から羽ばたいていったんだよ!

『座頭市』とか『眠狂四郎』、『ガメラ』に『大魔神』なんて、みんなが夢中になった人気シリーズも、永田さんの手から生まれたんだから、まじヒットメーカー

永田ラッパは日本の映画を世界に広めることにも、ものすごく力を入れたんですよ。

世界のクロサワ、世界のミゾグチ

話は1951年にさかのぼるんだけど、黒澤明監督の『羅生門』が、なんとベネチア国際映画祭でグランプリを獲ったんだよ!

これには世界中の映画関係者が「日本の映画って、すごいぞ!」って、もう度肝を抜かれたんだって!

この快挙に、永田雅一は「これはチャンスだ!もっと日本の映画を世界に売り出せるぞ!」ってピンときたのね!

海外の映画祭でどんな作品が評価されるのか、徹底的に調べまくったらしいよ!

イタリアでは社会派の作品が、フランスでは美しい映像の作品が好まれることを知って、「よし、それなら日本ならではの仏教の精神とか、人間の温かさをテーマにした作品を作ろう!」って考えたんだって! まじ戦略家!

んで、その作戦が大成功!

1953年には溝口健二監督の『雨月物語』がベネチアで賞を獲って、翌1954年には五所平之助監督の『地獄門』がカンヌ国際映画祭でグランプリに輝いたんだよ!

さらに、溝口健二監督の『山椒大夫』も、またベネチアで賞を受賞したんだから、もう日本の映画、世界を席巻しすぎ!

特に『地獄門』では、当時の最新技術だったイーストマンカラーを使って、それはもう映像の美しさにこだわりまくったらしいよ! 専門の委員会まで作って、画家さんとか色彩を測る技術者まで呼んで、徹底的に色にこだわったんだって! プロ意識の塊!

『羅生門』、『雨月物語』、『地獄門』と立て続けに世界を魅了した女優が、あの京マチ子さんなんだよ! 彼女の演技力は世界中で絶賛されて、「国際派グランプリ女優」としてその名を轟かせたんだから、まじかっこよすぎ!

永田雅一さんと、素晴らしい俳優やスタッフたちの情熱が、日本の映画を世界の舞台へと押し上げて、輝かしい歴史を刻んだってわけ!

866件から始まった脅威

1953年って、実はすごい年なんだよ! 『雨月物語』だけじゃなくて、『東京物語』とか『ひめゆりの塔』とか、今も語り継がれる名作が公開された年なんだよ!

そして翌1954年には、『七人の侍』や『ゴジラ』といった日本を代表する作品が誕生したんだから、もう映画界、絶好調じゃん!?

そんな輝かしい映画の時代に、静かに、だけど確実に日本のエンタメの景色をガラッと変える出来事が起こったんだよ。同じ年の2月1日、日本でテレビ放送が始まったんだ!

最初はテレビ持ってる家なんてたった866軒だけだったけど、この小さな始まりが、永田雅一さんだけじゃなくて、日本の映画産業全体の運命を大きく変えることになるんだから、これ歴史的瞬間!

1958年は、日本人が一番映画を観た年だったんだって!

全国に7,072もの映画館があって、1年間に約11億2700万人もの人が映画館に足を運んだらしいよ!

この頃は、1人あたり年間平均で10本も映画を観るくらい、みんな映画が大好きだったんだって!

でも、この年を境に、映画館に行く人はどんどん減っていったんだ。

一方、テレビの普及はまじでとんでもない勢いだったよ! NHKのテレビ契約数は、あっという間に155万件を超えたんだから! テレビが普及するにつれて、映画館の客足は急速に遠のいていったんだって。

永田雅一さんは、俳優さんたちが他の映画会社に移るのを防ぐために五社協定っていうのを作ったんだけど、テレビが強くなるにつれて、この協定は「俳優がテレビに出るのを制限して、映画の権利を守る」ためのものに変わっちゃったんだって。

なんだか、ちょっと悲しいよね。

映画界に忍び寄る影と、ビジネスモデルの変化!

昔の映画会社って、東京と京都にデカい撮影スタジオを持ってたんだよ。俳優さんとか監督さん、脚本家さん、カメラマンさん、美術さん、音響さん、編集さんまで、み〜んな社員として抱えてたんだ!

んで、作った映画を全国に配給したり、自分たちで経営する映画館まで持ってて、映画作りから上映まで全部自分たちでやってたの! このやり方は、日本の映画を大きく発展させるのに役立ったんだって。自分たちのスタジオがあるから、効率よく撮影できたし、社員のスタッフが力を合わせることで、たくさんの素晴らしい映画が生まれたんだから!

自分たちで配給権とか映画館まで持ってたから、映画を作ったお金もしっかり回収できたんだよ!

だけどね、映画作りにお金がかかりすぎて赤字が増えちゃって、たくさんの社員を抱えていくのがだんだん難しくなっていったんだ。

映画会社は、自分たちで映画を作る量を減らしていって、かつての「撮影所の黄金時代」を築いたやり方に限界が見え始めたのね。

映画会社のサバイバル戦略!

この頃、日本の会社は「もっと大きくなろう!」「色々な事業に手を出そう!」「グループで協力しよう!」っていう考え方が主流だったんだ。

永田さんの大映以外の映画会社は、映画だけじゃ立ち行かなくなると見て、不動産とか観光、レジャーとか、色々な分野に手を出して生き残ろうとしたんだって! ぶっちゃけ、賢い選択だよね!

たしかに、こうして色々な事業に手を出すことで、会社は安定したんだよ。映画産業自体もなんとか生き残って、私たちに娯楽を届け続けることができたのは事実! でも、その一方で、映画会社が本来果たすべき「観客に最高の娯楽を届ける」っていう役割が、ちょっと後回しになっちゃったようにも感じられちゃうんだよね

「映画の鬼」の執念!

そんな中でも、「映画の鬼」って呼ばれた永田雅一さんは、映画作りへの情熱を燃やし続けたんだよ! 1961年からは、「テレビじゃ見られない、特別な体験を映画で!」って、ワイド画面とか海外ロケ、ものすごく豪華なセット、そして大スターを惜しみなく使う「超大作路線」に力を入れたんだ!

まじ、カッコよすぎ!だけど、これがとんでもないことに!

大映の強みは、永田さんがとことんこだわった豪華なスターたちと、それを支える技術力の高いスタッフが生み出す「質の高い映像」だったんだ。でも、その分、映画作りにものすご〜くお金をかけちゃってたから、映画館での上映がおろそかになっちゃうっていう弱点もあったんだよね。

ライバルの松竹には、歌舞伎っていう盤石な経営基盤があったし、東宝や東映は、自分たちの強い映画館ネットワークを持ってたんだ。大映とか日活は、こうしたライバルに押されて、経営が苦しくなっていったんだって。まじ、弱肉強食の世界!

永田雅一の執念

そんな中でも、「映画の鬼」と呼ばれた永田雅一さんは、映画作りへの情熱を燃やし続けました。

1961年からは、「テレビじゃ見られない、特別な体験を映画で!」と、ワイド画面や海外ロケ、ものすごく豪華なセット、そして大スターを惜しみなく使う「超大作路線」に力を入れました。

でも、残念ながらこの挑戦は長くは続きませんでした。そして、大映はだんだんと元気 をなくしていきます。

大映の強みは、永田さんがとことんこだわった豪華なスターたちと、それを支える技術力の高いスタッフが生み出す「質の高い映像」でした。でも、その分、映画作りにものすごくお金をかけちゃうので、映画館での上映がおろそかになってしまうという弱点がありました。

ライバルだった松竹には、歌舞伎という盤石な経営基盤がありましたし、東宝や東映は、自分たちの強い映画館ネットワークを持っていました。

大映や日活は、こうしたライバルに押されて、経営が苦しくなっていったんです。

ラッパは止んだのか?ああ永田ラッパ

1971年。この年の映画館の数は2,974館。映画館に行った人は2億1,675万人。一番人が映画を観た1958年に比べると、なんと8割ものお客さんがいなくなっちゃったんだよ! まじかよ…。

この年、日本の映画界は激しい変化の波に襲われたんだ。1月には東宝が映画を作る部門を別の会社にして、専属の俳優さんたちは全員クビに。東宝は映画を配る会社として残って、東宝映画っていう新しい会社が映画を作るようになったんだって。8月には東映の社長、大川博さんが亡くなって、日活はロマンポルノと呼ばれる大人向けの映画を作る会社に大きく舵を切ったんだから、もう激変!

そんな中、大映は資金繰りが悪化して、都心の一等地にあった自分たちの映画館を売るハメに。人気のある映画館を失ったことで、お客さんもさらに減って、収入も減るっていう悪循環に陥っちゃったんだ。

それでも「最後の活動屋」って呼ばれた永田雅一さんは、本社ビルまで売って、最後まで映画を作り続けたんだよ!

まじ、映画への執念がすごい! でも、12月21日、ついに大映は倒産してしまいます。

そして、その翌日、大映を世界に知らしめた『羅生門』の監督、黒澤明さんが自殺未遂を図り、映画界に大きな衝撃が走ったんだから、もう悲劇が連鎖しすぎだわ。

永田雅一の蒔いた種と日本映画復興

どん底のように思われた1971年。でも、この年に、実は日本映画の未来につながる小さな芽が出てたんだよ!

4月30日、角川書店の角川文庫から横溝正史の探偵小説『八つ墓村』が出版されたの。

これがきっかけで、横溝正史作品が大ブーム!まさに逆転劇の予感。

その5年後、角川書店の社長、角川春樹さんが「映画を作ろう!」って宣言! 低迷していた日本映画界に、まるで竜巻のように新しい風を巻き起こしたんだ!

かつて永田雅一さんが夢見たような、オールスターキャストとか海外ロケを使った大作映画が、再び作られるようになったんだよ!

1976年、角川映画の記念すべき第一作『犬神家の一族』が公開されたんだ! この作品の監督は市川崑さん。照明の岡本健一さんとか編集の長田千鶴子さんとか、かつて大映で活躍した素晴らしいスタッフたちが集結したんだから、もう胸熱!

そして、その後の1985年には、永田雅一さんの大映を受け継いだ徳間書店の社長だった徳間康快さんがスタジオジブリを設立するんだよ! 奇しくも、永田雅一さんが亡くなった年でもあったんだから、まじ運命的!

高畑勲さんと宮崎駿さんが生み出すアニメーション映画は、日本の映画興行記録を塗り替えるほどの大成功を収めたんだ! 日本のアニメ、世界を席巻!

大映の事業やブランドは、徳間書店を経て、今のKADOKAWAへと引き継がれていったんの。まじ、歴史のバトンが繋がってるって感じだね!

永田なくとも映画は残る!

2022年、大映は生まれてから80周年を迎えたんだって! 永田雅一さんが残した、映画の歴史に名を刻む数々の名作が、最新の技術で美しくよみがえったんだよ!

4Kデジタル修復っていう技術で、まるで今の映画みたいにクリアに見られるようになったんだ!

この修復には、溝口健二とか黒澤明の作品に感動して映画監督を志したっていう、あの世界的巨匠、マーティン・スコセッシ監督が力を尽くしたんだって! レジェンドがレジェンドを救うって感じ!

4Kでよみがえった大映の作品たちは、海外の映画祭とかネット配信サービスで、また新しい活躍の場を見つけてるんだから、まじ感動!

会社はなくなっちゃったけど、永田雅一さんが情熱を注いで作った大映の映画は、今も色あせることなく、本物だけが持つ輝きを放ち続けてるんだよ!

映画ってさ、時代が変わっても、形が変わっても、私たちを魅了する力はずっと変わらないんだね!

あなたのおすすめの古い映画とか、ある?

参考文献

北村匡平『スター女優の文化社会学』(作品社)

北村匡平『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩書房)

中川右介『社長たちの映画史』(日本実業出版社)

KADOKWA『4K映画祭 劇場用プログラム』(KADOKAWA)

野中郁次郎『失敗の本質』(中央公論新社)

堺屋太一『組織の盛衰』(中央公論新社)

冨山和彦『選択と捨象』(朝日新聞出版)

フィリップ・コトラー『マーケティング・マネジメント』(丸善)

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)