日本映画の黄金期を築いた“ラッパ ” 永田雅一の「活動屋魂」

永田雅一(1906-1985)

大映社長、映画プロデューサープロ野球球団オーナー

映画の魔力

映画の世界は、勝ち負けが明確な過酷なビジネスです。1作品ごとに、”成功したか? 失敗したか?”や”製作費を回収できたかどうか?”が一目瞭然です。

しかし、映画には魔力があります。かつて映画離れを招いた元凶のテレビ局やテレビ離れのきっかけを作った映像配信サービス会社も、今や映画製作に積極的に参入しています。

映画は特別な感動と体験を提供し、観客を夢中にさせる力を持っています。

映画に魅入られた男 永田雅一

映画の魔力に心を奪われ、日本映画の黄金期を築いた人物がいます。”ラッパ”として知られる大映社長、永田雅一です。

1942年に創立された大映は、1971年に倒産するまでに約1500本の映画を製作しました。

永田雅一は戦後、大映を率いて溝口健二(1898-1956)、伊藤大輔(1898-1981)、市川崑(1915-2008)、三隅研次(1921-1975)、増村保造(1924-1986)などの名匠たちの作品をプロデュースしました。

また、京マチ子(1924-2018)、若尾文子(1933-)、山本富士子(1931-)、市川雷蔵(1931-1969)、勝新太郎(1931-1997)などの名だたるスターを輩出しました。

永田は海外の映画祭で日本映画の地位向上に貢献し、『座頭市』や『眠狂四郎』、『ガメラ』、『大魔神』など魅力的なシリーズ作品で大衆の心をつかみました。

世界のクロサワ、世界のミゾグチ

1951年、黒澤明監督の『羅生門』はベネチア国際映画祭でグランプリを受賞し、世界の映画界にその名を轟かせました。

この栄誉の価値を認識した永田雅一は、より大きな市場を求めて、海外の国際映画祭向けの作品製作に取り組むことを決断しました。

永田は、海外で受け入れられる要素を徹底的にリサーチしました。イタリアでは社会性が重視され、フランスでは美的センスに優れた作品が受賞しやすいことを察知しました。そこで、仏教的なオリエンタリズムやヒューマニズムを前面に押し出した作品を構想します。

1953年には溝口健二の『雨月物語』がベネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲得し、続いて1954年には五所平之助(1902-1981)の『地獄門』がカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。さらに、溝口健二の『山椒大夫』が『雨月物語』に続きベネチア国際映画祭で銀獅子賞に輝きます。

永田雅一は『地獄門』ではイーストマンカラーを使用し、クオリティに注力します。

また、専門委員会を設け、画家や色彩を計測する技官を招くなど、美術面にも徹底的なこだわりを見せました。

1949年に大映に入社した京マチ子(1924-2019)は『羅生門』、『雨月物語』、『地獄門』に出演。その演技力により、彼女は国際派グランプリ女優としての評価を高めました。

これらの作品は、世界各国の観客に深い感銘を与え、日本映画の輝かしい歴史の一ページとなりました。永田雅一と才能豊かなキャスト・スタッフの努力と情熱が、世界の映画文化に大きく貢献したのです。

866件から始まった脅威

1953年は、『雨月物語』をはじめ、『東京物語』や『ひめゆりの塔』など、日本映画史に長く刻まれる名作が公開された年です。

翌1954年は、『七人の侍』や『ゴジラ』など輝かしい作品が世に送り出されました。

同じ年の2月1日、日本ではテレビ放送が開始されます。

受信契約数は866件に過ぎませんでしたが、このテレビが、永田雅一だけではなく、日本の映画産業全体の運命を大きく変えることになります。

1958年には国民がもっとも多く映画を観た年で、7,072館の映画館で1年間に約11億2700万人もの入場者が記録されました。

この頃には1人あたり平均して10本の映画を観るほどの映画人口がありましたが、この年がピークとなり、その後映画人口は減少していきました。

一方で、テレビの普及は驚異的で、NHKの受信契約数は155万6801件にまで増加しました。テレビの普及に伴い、映画館に足を運ぶ人々は急速に減っていったのです。

永田雅一が提唱した映画会社間の俳優の引き抜き防止のための五社協定は、俳優のテレビ出演を制限し、映画の既得権を守るためのものに変わってしまいました。

ビジネスモデルの綻び

映画会社はかつて、東京と京都に撮影スタジオを所有し、俳優や監督をはじめ脚本、撮影、美術、音響、編集スタッフを社員として抱え、全国に配給網と直営映画館を持ち、製作から興行までを一貫して行う垂直統合型のビジネスモデルを展開してきました。

このビジネスモデルは、日本の映画産業の発展に大きく寄与してきました。

このビジネスモデルは日本の映画産業の発展に大きく寄与しましたが、映画制作の赤字が増え、大量の人員を抱えて機能を維持することが難しくなります。

映画会社は自主製作を縮小し、「撮影所の黄金時代」と呼ばれる繁栄を築いたビジネスモデルに綻びを見せ始めます。

黄金時代を築いたビジネスモデルの恩恵

  1. スタジオの所有:自前の撮影スタジオを所有することで、撮影の効率化やコスト削減につながりました。
  2. 社員制度の導入:スタッフを社員として抱えていたことがスタッフの技術の向上、スムーズなコミュニケーションが図れることが映画の質の向上につながり多くの名作を生んだといえます。
  3. 配給網や直営映画館の確保:映画会社が自社作品の配給網や直営映画館を持つことで、製作から興行までを一貫して行うことができ、製作費を回収するための収益確保につながりました。

多角化を図る映画産業

この時期、日本企業の経営戦略の中心には「成長」「多角化」「グループ化」といったキーワードがありました。

大映を除く映画会社は、映画に代わる新たな事業を展開し、不動産・観光・レジャーなど様々な分野に進出して、存続を図りました。

この多角化の取り組みにより、映画産業は経営の安定を追求する一方で、映画ビジネスの本来の役割、つまり観客に対して娯楽を提供することが後退していった印象を受けます。

それでも、多角化戦略によって映画産業は存続を果たし、引き続き観客に娯楽を提供し続けることができました。

永田雅一の執念

映画の鬼 永田雅一は映画の製作に対する執念を持ち続けました。1961年からは、テレビとの差別化を図るため、テレビでは味わえない映像体験を観客にアピールしました。

永田はワイド画面、海外ロケ、壮大なセット、豪華キャストの4点をウリにした超大作路線を展開しましたが、この試みは長続きせず、大映の凋落が始まることとなります。

大映の強みは、永田がこだわる絢爛たるスターと重厚な画を作り上げる技術スタッフが生み出すクオリティです。

しかし、経営資源の多くを製作費に投入するために、興行は手薄になる弱みがありました。

競合の松竹は歌舞伎という盤石な経営基盤があり、東宝、東映は自社直営館の強力なネットワークを持っていました。大映や日活は興行力の強い競合に押されて経営が厳しくなりました。

万策尽きた永田雅一

1971年、映画館数は2,974館で、入場者数は2億1,675万人です。1958年と比較すると、約8割の観客を失ったことになります。

この年、映画界には激しい変革が訪れます。まず、1月15日には東宝が制作部門を別会社に分離し、専属俳優は全員解雇されました。一方で、配給会社としての東宝は残り、制作会社として東宝映画が設立されました。

8月17日には東映の社長大川博が亡くなりました。

日活は成人映画を製作する会社に転換し、11月21日にはロマンポルノと呼ばれる新たなジャンルの第1作を公開しました。

一方で、大映は資金繰りが悪化して都心の一等地にある直営館を売却することになりました。このため、集客力のある映画館を失い、収入が減少するスパイラルに陥ってしまいました。

そんな中でも「最後の活動屋」と呼ばれた永田雅一は、本社ビルを売却してもなお映画の製作を最後まで続けました。

しかし、12月21日、大映はついに倒産してしまいます。

そして翌12月22日、大映を躍進させた『羅生門』の監督 黒澤明が自殺未遂を図り、映画界に大きな衝撃を与えました。

永田雅一の蒔いた種と日本映画復興

1971年4月30日、角川書店の角川文庫から横溝正史(1902-1981)の名作『八つ墓村』が刊行されました。この1冊から始まった横溝正史ブームは前例のない盛り上がりを見せました。

5年後、角川書店の社長 角川春樹(1941-)が映画製作に乗り出し、低迷していた日本映画界に旋風を巻き起こしました。かつて永田雅一が夢見たオールスターキャストや海外ロケといった大作路線が復活したのです。

1976年、角川映画の第1作として公開された『犬神家の一族』には、監督には市川崑が、照明には岡本健一(1914-2002)、編集には長田千鶴子(1942年-)など、大映ゆかりの優れたスタッフが集結しました。

その後、1985年には永田雅一の後を継いだ徳間書店社長の徳間康快(1921-2000)がスタジオジブリを設立します。奇しくも永田雅一が世を去った年です。

高畑勲(1935-2018)と宮崎駿(1941-)によるアニメーションは日本映画の興行記録を塗り替えるほどの大成功を収めました。

やがて大映の事業とブランドは、徳間書店を経てKADOKAWAに引き継がれることとなりました。

不滅の大映ブランドとデジタル

2022年に大映は創立から80周年を迎えました。永田雅一が遺した映画史に名を刻む数々の名作が4Kデジタル修復され、21世紀に蘇りました。

溝口健二、黒澤明の作品に感銘を受け映画監督を志した世界的巨匠 マーティン・スコセッシ(1942-)が修復に尽力しました。

4K修復事業は、海外の映画祭や動画配信サービスで新たな商機を見い出しています。

会社が無くなっても、永田雅一が製作した大映ブランドの作品は残り、本物だけが醸し出せる新たな輝きを増しているのです。

参考文献
 

北村匡平『スター女優の文化社会学』(作品社)

北村匡平『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩書房)

中川右介『社長たちの映画史』(日本実業出版社)

KADOKWA『4K映画祭 劇場用プログラム』(KADOKAWA)

野中郁次郎『失敗の本質』(中央公論新社)

堺屋太一『組織の盛衰』(中央公論新社)

冨山和彦『選択と捨象』(朝日新聞出版)

フィリップ・コトラー『マーケティング・マネジメント』(丸善)

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)