耽美にして無頼。2つの顔を持つ 永井荷風
あたしゃねぇ、永井荷風先生って人の大ファンなんだよ。あの谷崎潤一郎先生と並ぶくらいすごい人だったんだよ。
荷風先生はね、海外で暮らした経験から『あめりか物語』とか『ふらんす物語』なんて本を書いたんだけど、『ふらんす物語』は、当時の政府に「ダメ!」って言われちゃったんだって。
1911年に起こった大逆事件。明治天皇暗殺を企てたと社会主義者が逮捕、処刑された事件だよ。
でもホントのことはわかりゃしないよ。
この事件をきっかけに、先生は変わった。耽美ものから時代に逆らうような作風になるんだよ。
荷風先生は、世の中の動きをじーっと見て、自分の意見をしっかり持ってたんだ。それが、先生の作品にも表れてるんだね。
荷風先生が愛した街
1920年にね、荷風先生は今の六本木に、自分だけのおしゃれな洋館を建てたんだよ。
外壁をペンキで塗って、そのペンキをもじって「偏奇館(へんきかん)」って名付けたんだって。洒落てるでしょ? ここで、荷風先生は『つゆのあとさき』とか『墨東綺譚(ぼくとうきだん)』みたいな、たくさんの名作が生まれたんだねぇ。
でもね、そんな穏やかな日々も長くは続かなかったの。1923年の関東大震災。その時、いたのが荷風先生はお気に入りの山形ホテル。
日記『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』には「「昼餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動歇まざるを以て内に入ること能はず。」なんて、当時の様子が細かく書かれてるよ。
親友の谷崎先生は関西に行っちゃったけど、偏奇館は無事だったから、荷風先生はそこで暮らすことを選んだんだね。


アメリカ軍の街 六本木
だけどね、戦争の終わり頃、1945年の東京大空襲で、大事な偏奇館は焼け落ちちゃったんだ。荷風先生は鞄一つで焼け出されたんだって。
戦争が終わって、GHQ(連合国軍総司令部)がやって来ると、六本木はアメリカ軍の街になっちゃったんだよ。
面白いことにね、日本国憲法の草案が話し合われた場所って、荷風先生が愛した偏奇館とホテルのすぐ近くだったんだってさ。
日本国憲法ができた時、世の中はお祭り騒ぎさ。でも荷風先生は日記に「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」って書いたんだよ。世の中の浮かれた様子とは大違い。荷風先生は冷静に物事を見てたんだねぇ。

荷風先生の老後
晩年の荷風先生は、東京を離れて千葉県市川市八幡で静かに過ごしました。晩年の荷風先生はね、東京を離れて千葉の市川で静かに暮らしたんだよ。
文化勲章をもらったり、色々な賞をもらったりして、功績は高く評価されたんだ。
でもね、荷風先生は一人でひっそり暮らして、最後は誰にも看取られずに亡くなったんだって。ちょっと寂しい気もするけど、荷風先生らしいのかもしれないねぇ
1917年9月17日から死の前日まで、実に40年もの長きにわたって書き続けた日記『断腸亭日乗』には、墓の準備や遺産整理とか、いまでいう「終活」の準備が書かれている。
荷風先生は生前、お葬式もお墓もいらないって言ってたらしいんだけど、そうはいかなかったんだよ。
天皇陛下からお供え物があったり、文化勲章が飾られた祭壇でお葬式が行われたり、お墓も作られちゃったんだから、なんてこったい!って感じだよね。それこそ断腸の思いだよ!
でもね、荷風先生が残した作品や、先生が描いた人々の暮らしは、今もあたしみたいな名もない一読者の心の中で生き続けてるんだんだねぇ。