「やってみなはれ」の精神で“琥珀の夢”を叶えたウイスキーの父 鳥井信治郎

鳥井信治郎

鳥井信治郎(1879-1962)

サントリー創業者、日本ウイスキーの父

日本に洋酒文化を築いた情熱の男 鳥井信治郎

明治から昭和の激動の時代、日本には「挑戦」を武器に新しい文化を切り拓いた男がいました。サントリー創業者 鳥井信治郎です。

信治郎は日本人の舌に合う洋酒を追い求め、失敗を恐れず挑戦を重ね日本の洋酒文化を築き上げました。

その生涯は「やってみなはれ」の精神に貫かれていました。

赤玉ポートワインと広告革命

「これや、これからの日本に、めっちゃ合う」13歳で洋酒に出会った信治郎は、その味に未来を感じ、20歳で独立。ワイン輸入を始めますが「酸っぱい」と日本人には受け入れられませんでした。

信治郎は日本人のための洋酒を創ることを決意。

「ちゃうちゃう 甘味が足りなんだんや」試行錯誤の末、甘みを加えた赤玉ポートワインを完成させます。

「売らなあかん 知ってもらわんならん」販売促進のため、1922年に日本初のヌードポスターを制作。この広告は大きな話題を呼び、街に貼られるたびに盗まれるほどの人気を博しました。

信治郎の「攻めの姿勢」とこだわりは、洋酒を人々の生活に浸透させる原動力となったのです。

国産ウイスキーへの挑戦と“やってみなはれ”

次なる挑戦は、日本で本格的なウイスキーを造ること。1923年に京都・山崎に蒸留所を建設し、1929年に「白札ウイスキー」を発売しますが、当初は全く売れませんでした。

それでも信治郎は「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」と語り、挑戦を続けます。 試作を重ね、「赤札」から「トリスウイスキー」へと進化し、1946年には庶民に広く浸透。

1950年の『サントリーオールド』でブランドを確立し、1960年の『サントリーローヤル』で集大成を迎えました。

こうして日本人の舌に合うウイスキーが誕生し、洋酒文化は生活に根づいたのです。

  • 1946年『トリス』で庶民にも浸透
  • 1950年『サントリーオールド』でブランド確立
  • 1960年『サントリーローヤル』で集大成へ

信治郎が遺したのは酒だけではありません。「やってみなはれ」という挑戦の精神は、今もサントリーの企業理念として生き続けています。琥珀色の輝きとともに、信治郎の情熱は世界中のグラスの中で光を放ち続けているのです。

いまも信治郎の声が聞こえます。自信を失った日本人に向けて、「あんたはんも やってみなはれ!」

参考文献
  • 伊集院静『琥珀の夢』(集英社)
  • サントリーホームページ