福原信三(1833-1948)
資生堂初代社長、写真家
資生堂の祖 福原信三 美の哲学
資生堂を創造した男
1915年、資生堂は一人の若者に託されました。創業者の三男、福原信三です。
父 福原有信は、1872年に「西洋の薬学でより良い世界を創りたい」という熱い志を胸に、日本初の民間洋風調剤薬局「資生堂」を創業。
息子の信三は幼い頃から芸術に惹かれ、日本画、水彩画、油絵、そして写真に夢中になります。
しかし、兄の病と早すぎる死により、経営とは無縁だった信三が、若くして事業を引き継ぐことになったのです。
資生堂に魂を吹き込む
芸術家だった信三は、経営者としても並外れた才能を発揮します。
1916年、信三は社内に「意匠部」を新設し、若い芸術家たちを次々と迎え入れました。
信三が部員に語った言葉があります。
「商品をしてすべてを語らしめよ」
言葉ではなく、商品の持つ美しさそのものが、すべてを物語るべきだという信念が資生堂のアイデンティティを築く礎となりました。
花椿マークに宿る信三の魂!
資生堂の象徴である「花椿マーク」。
実は、このロゴマークは信三自身がデザインしたものです。
彼はプロ顔負けのカメラマンでもあり、ポスターや広告、パッケージ、さらには店舗設計に至るまで、そのすべてに指揮を執りました。
ロゴ一つ、箱の模様一つに「資生堂とは何か」という哲学を込める。
その徹底した美への追求は、もはや「美の鬼」と呼ぶにふさわしいものです。

信三は、芸術家たちの育成にも力を注ぎ、1919年には資生堂ギャラリーを開設。さらに、1928年には名高い洋食レストラン「資生堂パーラー」をオープンし、文化人が集うサロンとして大きな話題を呼びました。
100年貫く「お客様ファースト」の精神!
1924年、株式会社資生堂が誕生。これは資生堂にとって、まさに第二の創業でした。
信三は、ただの化粧品会社の社長ではありませんでした。
人々の暮らしと心を、真に美しくしたいという純粋な願いが、彼を突き動かしたのです。
1921年に制定された「資生堂五大主義」は、その理念を象徴しています。
- 品質本位主義: 品質を生命とし、常に最高水準を目指す。
- 共存共栄主義: 近代的組織を基盤とし、相互の繁栄を期する。
- 小売(消費者)主義: 消費者志向の経営に徹する。
- 堅実主義: 合理主義を根底とした科学的経営に徹する。
- 徳義尊重主義: 常に相手を尊重し、正しく誠意ある経営に徹する。
中でも特筆すべきは、「小売(消費者)主義」です。「お客様第一主義」が今でこそ当たり前ですが、当時は非常に革新的な考え方でした。
花椿会の誕生!
信三は、お客様に心から商品のファンになってもらわなければ意味がないと考えていました。
その想いが形になり、1937年、お客様の会員組織「花椿会」が発足し、今日の「花椿CLUB」へと続いています。

また、1934年には、信三の美容哲学を伝える「美の伝道師」、ミス・シセイドウが誕生。

応募者240名の中から選ばれた才色兼備の9名が、「近代美容劇」という芝居形式で、最新の美容法や技術を伝えました。
90年も前に、この発想と実行力があったことに驚かされます。
資生堂の使命!女性たちの希望を背負う!
かつて、女性が社会で活躍することは容易ではありませんでした。
しかし、戦後、女性たちが社会へと羽ばたき始めた時、資生堂は彼女たちの背中を力強く押す存在となります。
1946年、黒澤明監督の『わが青春に悔いなし』のヒロイン、原節子を広告に起用。その姿は、新しい時代を生きる女性たちの希望そのものであり、社会現象を巻き起こしました。
信三は確信していました。
「これからは、女性が自由に、美しく生きる時代が来る」と。
1948年、その信念を胸に、信三はその生涯を終えました。彼の魂は、今も資生堂に息づいています。
150年の時を超えて
「美しさとは、幸せを願うこと」。
資生堂は、この揺るぎない真理を150年にわたって語り続けています。 ただの化粧品会社でも、ただの企業でもありません。
資生堂は、「美しさ」を通じて、人々の生き方そのものを変えていくブランドなのです。
鏡に映る自分が、ふと誇らしく思える。
「そう、私は女優なのよ」
信三が追い求めた美の力は、まさにその瞬間にあるのかもしれません。
- 川島蓉子『資生堂ブランド』(文藝春秋)
- 北村匡平『スター女優の文化社会学――戦後日本が欲望した聖女と魔女 』(作品社)