「やってみなはれ」の精神で“琥珀の夢”を叶えたウイスキーの父 鳥井信治郎

鳥井信治郎

鳥井信治郎(1879-1962)

サントリー創業者、日本ウイスキーの父

アツい男 信治郎

ねーねー、みんな! 明治、大正、昭和って、日本がガラッと変わった時代だったじゃん?

そのど真ん中に信治郎さんっていうアツい男がいたの! 信治郎さんが胸に刻んでた言葉、それが「やってみなはれ」なんだよ!。

「これや!日本人にはこの味や!甘みや!」

信治郎さんがまだ13歳の時、初めて「洋酒」に出会ったんだって!

その透き通るような美しい琥珀色に、信治郎少年はもう完全にメロメロになっちゃったらしいよ! うわっ、かわいい!

そして、20歳になった1899年に会社を作ってスペインからワインを輸入して売り始めたの。

でもね、これが全然売れなかったんだって!

なんでかって? 当時の日本人には、そのワインの「酸味」が強すぎたからなんだってさ。

そこで信治郎さんは、「もっと甘みが必要や!」って気づくんだよね。そこから、寝食を忘れて試行錯誤を繰り返し、ついに特別な配合を見つけ出したの!

そうして生まれたのが、あの有名な「赤玉ポートワイン」なんだよ!

これがもう大ヒット商品になって、信治郎さんは最初の成功をガッチリ掴んだんだから、マジでかっこいいよね!

日本初のヌードポスター?! 広告戦略が攻めすぎ!

信治郎さんはね、ただ美味しいお酒を作るだけじゃなくて、どうやってそれをみんなに知ってもらうかってことにも、本気出してたんだって!

特に力を入れたのが、広告宣伝だったの!

だってさ、まだ日本人に馴染みが薄かった洋酒の良さを分かってもらうには、まず「洋酒ってどんなもの?」って知ってもらう必要があったからね。そこ、大事だよね。

そんな中で、日本の広告の歴史に語り継がれる、とんでもないポスターが生まれちゃうんだ!

それが、1922年に作られた日本初のヌード写真ポスターなんだから、ぶっ飛んでるでしょ?!

「ポスターを作りたいんや。モデルになってくれ」この信治郎さんの一言で、赤玉ポートワインを宣伝するために作られた劇団「赤玉楽劇団」の女優 松島栄美子さんが、モデルを務めることになったんだって!

当時としては、刺激が強すぎたポスターだから、貼り出されるやいなや、すぐに盗まれちゃったらしいよ。わかるー! ワタシも欲しいなぁ

ちなみに、信治郎さんはこのポスターの「赤色の発色」にどうしても納得がいかなくて、OKを出すまでに1年もかかったっていう、こだわりっぷりがわかるエピソードも残ってるんだから、もう職人魂ハンパないよね!

「なんでもやってみなはれ」

1929年に「赤玉ポートワイン」が大成功した信治郎さんだけど、夢はここで終わらなかったの! 次に挑戦したのは、日本でウイスキーを作ることだったんだから、向上心の塊だよね!

そう琥珀の夢!

1923年、京都の山崎っていう場所に蒸留所を建てて、いよいよ国産ウイスキー作りをスタートさせるんだけど、これがまた大変な道のりだったらしいの。

1929年に日本で初めて作った本格ウイスキー「白札(しろふだ)」を発売するんだけど、残念ながら世間の評価は今ひとつだったんだって。せっかく作ったのに、ちょっと切ないよね。

でもね、信治郎さんは諦めなかったの!ようできた人や

人生とはとどのつまり賭けや。 やってみなはれ。 なんでもやってみなはれ。 やらなわからしまへんで。

この言葉の通り、何度も失敗を繰り返しながら、「赤札(あかふだ)」とか「サントリーウイスキー12年」っていう、今につながるウイスキーを次々と世に送り出していったんだよ! そして、日本を代表するウイスキーメーカーとしての地位をガッチリ固めていったんだから、かっこよすぎ!

そして1946年には、庶民の味方「トリス」を発売して、洋酒メーカーとしてのサントリーの地位をもう不動のものにしちゃったの!

1950年には、日本中で大流行した代表ブランド「サントリーオールド」も誕生するんだから、もう破竹の勢いだよね!

信治郎さんは、1960年に自身の集大成ともいえる「サントリーローヤル」を世に遺して、1962年にこの世を去ったの。夢を叶えた人生だね。

サントリーは、今も創業120年を迎える歴史の中で、信治郎さんの「失敗を恐れずに挑戦する」っていう「やってみなはれ」の精神を、創業以来ずっと大切に掲げ続けてるんだよ

参考文献
  • 伊集院静『琥珀の夢』(集英社)
  • サントリーホームページ