森永太一郎(1865-1937)
森永製菓創業者
人生を変えた1粒のキャンデー
時はきた、ただそれだけだ!
1888年、森永太一郎 25歳。
あの森永製菓創業者。
日本の製菓業界のパイオニア。
太一郎は故郷 伊万里の陶器を売るため単身、アメリカへと旅立った。
冷たい街角、人種差別。ことばも通じない。
待っていたのは、孤独。
打ちのめされる太一郎の運命を変えたのは一粒のキャンディ。
街角で見知らぬ女性が、1粒のキャンディを差し出す。
口に含んだ瞬間、衝撃が走った。
「がばいうまかー!」
それは太一郎にとって、未来の味だった。希望の味だった。
彼女は太一郎の幸運の天使。
アメリカで洋菓子鬼修行
太一郎は決めた。
「俺、洋菓子職人になる」
それは、焼き物を売りに来た男が、人生のすべてをひっくり返す決断だった。
そして、アメリカで修行を重ね、西洋の菓子づくりを学び続けた。
技を盗め。味を掴め。己の菓子を生み出せ!
1899年、帰国。東京・赤坂溜池に森永西洋菓子製造所を創業。
日本のお菓子の歴史が、太一郎を中心に動き出す。
ミルクキャラメル誕生までの道のり
当時の日本には、キャラメルも牛乳も馴染みがなかった。
販売初期は「バタくさい」と言われ、全く売れない。
さらに湿度で溶ける、輸送が困難、常識はずれの味。
だが、太一郎は、あきらめなかった。
あきらめない。何度でも立ち上がる。
ここで、あきらめたらアメリカでの苦しい修業は一体?
配合を見直し、ミルクの量を調整。
ついに運命のレシピが、完成する。
「これなら、日本人にも受け入れられる!」
苦節15年。
1914年 森永ミルクキャラメル誕生!
その一粒が、日本中を、甘く包む!
小さな黄色い箱が、やがて国民的スイーツになるまで、時間はかからなかった。
最強バディ、現る!
1905年。太一郎の前に現れたのが、実業家松崎半三郎。
リヤカーを引いてお菓子を売り歩く2人。
たった2坪から始まった工場。
やがて日本を代表する菓子メーカー森永製菓へと、成長する。
伝える!見せつける!驚かせる!
「どんなに良い品でも、知られなければ意味がない」
だから伝える!見せつける!驚かせる!
太一郎は型破りな広告手法を次々に展開。
- 「天下無敵」のキャッチコピー
- 大横綱・太刀山の手形を使った広告
- 飛行機から宣伝ビラをばらまく“森永号”作戦
- キャラメルの空箱でアートを作る「図画コンテスト」開催
そしてあのエンゼルマーク。
太一郎自らが描いた夢の形!
太一郎は命を賭してエンゼルマークを守り抜いた。
エンゼルマークは、太一郎が得意するマシュマロがアメリカでエンゼルフードと呼ばれていたことに由来する。
エンゼルの名を冠した唯一のお菓子 エンゼルパイ。
太一郎の没後20年。1958年に生まれたエンゼルパイ。
太一郎が愛したチョコレート、マシュマロ、ビスケットのすべてが詰まった看板商品。
一粒の奇跡が、文化をつくる
太一郎のお菓子は、日本人を驚かせた。
「お菓子って、饅頭や羊羹だけじゃないんだ」
あのキャンディを、もし受け取っていなければ
キャラメルも、チョコも、エンゼルマークも生まれていなかったかもしれない。
今もなお、森永ミルクキャラメルの黄色い箱を手にする人々がいる。
世代に受け継がれている。
その一粒が、誰かの心を温かく包む。
- 若山三郎『菓商 森永太一郎』(徳間書店)
- 北方謙三『望郷の道』(幻冬舎)