源頼朝 “鎌倉殿”の天下草創
源頼朝(1179-1199)
“鎌倉殿”こと源頼朝が築いた武家による新しい政治は日本史の一大イノベーションです。頼朝は、幕府による新体制で新しい世の中を作ることを、自ら「天下草創」と名付けました。
今度は天下の草創なり
もっとも淵源を究め行はるべく候
今は天下が始まろうとしている時期だ。新しい世の中を作る、その本質的な理由を深く突き詰めて考えるべきである。
淵源とは物事の本質です。頼朝は世の中の秩序の崩壊を招いた本質は、度重なる謀反であると見抜き、守護・地頭を設置し国内の強力な統率を図ります。1185年12月、朝廷との軋轢を避けたい頼朝は、このことを朝廷に諮るよう頼朝派の公卿 九条兼実に書状を送ります。
奥州藤原氏を鎮圧し、武家の頂点に立った頼朝は征夷大将軍へと任ぜられ1192年7月、鎌倉幕府を開きます。1199年頼朝は急逝し、誕生したのが大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でおなじみの鎌倉幕府の御家人13人による合議制です。
足利尊氏 理想の武家政治を夢見た漢
足利尊氏(1305-1358)
源氏の棟梁でありながら1333年に鎌倉幕府を滅ぼし1336年に征夷大将軍となり室町幕府を開いた足利尊氏。
脆弱な政権基盤の下、絶えない内乱の中で芸術文化が開花した室町時代。1573 年まで徳川時代に劣らぬ230年間に渡る長期政権を実現しています。
足利尊氏のことばの中に長期政権の「源」がありそうです。
君臣将卒は一体である。
将は身体、士卒は手足、君は心である。
手足病めば、身体苦しむ。身体疼く時、手足も苦しむ。
別の身体ではない。
君、臣、将、兵は一体。つまり将は身体、士卒は手足、君は心である。手足を病めば身体が苦しいし、身体が疼けば手足も疼くのと同じである。それぞれ身分が異なるし、別の身体を持ってはいるが、心は一つで固く結ばれているのだ
足利尊氏のことばの中に長期政権の「源」がありそうです。
藤堂高虎 戦国の『プロ経営者』
藤堂高虎(1556-1630)
複数の企業を渡り歩き、思い切った改革を断行し成功に導く「プロ経営者」。戦国時代に諸家を渡り歩き功績を残したプロ経営者的存在の武将が藤堂高虎です。
寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし
かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし
これ本意となすべし
朝、寝室を出れば1日が始まる。自分にとっては、今日が最後の日かも知らない。死を覚悟して生きていれば動じることはない。その思って生きよ
8人の主君に仕え、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し「築城の名人」として知られ、1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に就きました。以後、徳川家のブレーンとして重用されます。
高虎が遺したことばは「日々、今日が最後の日と覚悟をして生きよ」という意味です。藤堂家の家訓でもあります。つまり「毎日を大切に生きることが何よりも大切である」。現代でも通じる名言です。
島津義弘 猛将『鬼島津』
島津義弘(1535-1619)
1600年の関ヶ原の戦い 。東軍の大将 徳川家康が最も恐れた西軍の武将が“鬼島津〟こと島津義弘です。「敵中突破」という無謀な撤退戦に挑んだ島津義弘が遺したとされる家訓が薩摩藩の教え『男の順序』です。
一、何かに挑戦し、成功した者
二、何かに挑戦し、失敗した者
三、自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者
四、何もしなかった者
五、何もせず批判だけしている者
戦いの序盤は西軍が常に優勢でした。しかし一旦崩れるとわずか1時間で壊滅状態となりました。この間に島津の1500という元々少ない兵力は800に減少します。
島津隊は義弘を薩摩に帰すために無謀といえる撤退戦を仕掛けます。徳川家康の本陣の前を突破する作戦です。決死の島津隊は、鏃の形に陣営を組み、島津兵は文字通り死兵と化し家康の本陣目掛けて突進します。
「敵中突破」という命がけの作戦に挑む島津の鋼の意思と家臣たちとの絆、義弘に対する深い忠誠心のもとに発揮される”薩摩武士“の強さには家康は驚愕します。
島津義弘は薩摩に奇跡の生還を果たし、関ヶ原の戦い後、島津家は徳川家康より島津家の石高は減らずに所領を安堵されます。西軍に味方した武将は厳しい措置を受け所領を減らされていることからすれば、例外的な措置といえます。徳川家康は、同じ“戦さ人”として島津義弘に畏敬の念を抱いたゆえの措置かもしれません。
島津義弘を筆頭に歴代の藩主は、挑戦する人物を求め重用しました。この『男の順序』の精神が代々受け継がれ、徳川幕府崩壊後の明治維新。西郷隆盛、大久保利通、大山巌ら近代日本の礎を築く人物を輩出し、時代を大きく変革させました。
山田徹『鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像 』(光文社)
村上元三『藤堂高虎』(徳間書店)
池宮彰一郎『島津奔る』(新潮社)