薩摩・島津家に伝わる人材登用の極意

島津義弘(1535-1619)


一、何かに挑戦し、成功した者

二、何かに挑戦し、失敗した者

三、自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者

四、何もしなかった者

五、何もせず批判だけしている者

1600年、関ヶ原の戦い 。東軍の大将 徳川家康が最も恐れた西軍の武将が“鬼島津〟こと島津義弘です。鬼島津〟こと島津義弘です。陣を突破し決死の撤退を敢行。徳川家康を震え上がらせた1人の勇猛な武将がいました。“鬼島津〟こと島津義弘です。

戦いの序盤は西軍が常に優勢でした。しかし一旦崩れるとわずか1時間で壊滅状態となりました。この間に島津の1500という元々少ない兵力は800に減少します。

島津隊は義弘を薩摩に帰すために無謀といえる撤退戦を仕掛けます。徳川家康の本陣の前を突破する作戦です。決死の島津隊は、鏃の形に陣営を組み、島津兵は文字通り死兵と化し家康の本陣目掛けて突進します。

「敵中突破」という命がけの作戦に挑む島津の鋼の意思と家臣たちとの絆、義弘に対する深い忠誠心のもとに発揮される”薩摩武士“の強さには家康は驚愕します。

島津義弘は薩摩に奇跡の生還を果たし、関ヶ原の戦い後、島津家は徳川家康より島津家の石高は減らずに所領を安堵されます。西軍に味方した武将は厳しい措置を受け所領を減らされていることからすれば、例外的な措置といえます。徳川家康は、同じ“戦さ人”として島津義弘に畏敬の念を抱いたゆえの措置かもしれません。

関ヶ原の戦いの「敵中突破」という無謀な撤退戦に挑戦した島津義弘が遺したとされるのが薩摩藩の教え『男の順序』です。

島津義弘を筆頭に歴代の藩主は、挑戦する人物を求め重用しました。この『男の順序』の精神が代々受け継がれ、徳川幕府崩壊後の明治維新。西郷隆盛、大久保利通、大山巌ら近代日本の礎を築く人物を輩出し、時代を大きく変革させました。

参考資料

池宮彰一郎『島津奔る』(新潮社)