吉川英治と赤坂 赤坂7丁目、8丁目

吉川英治(1892-1962)作家、文化勲章受章者

”エンタメ小説の祖“  吉川英治

次から次へと敵を殺す武蔵に正しい剣の在り方を授ける沢庵。二天一流の開祖宮本武蔵が師との出会いから剣聖に到達するまでの道を描く『宮本武蔵』。劉備・関羽・張飛・孫権・曹操・諸葛孔明ら英傑たちが活躍する群雄割拠の世を舞台にした『三国志』。読み始めたら止まらない吉川英治の作品世界。吉川英治は時代を超えて人々に愛される“エンタメ小説の祖”にして“元祖国民的ベストセラー作家”です。

赤坂で書かれた名作の数々

吉川英治は、生涯に10数回もの転居を繰り返し2度、赤坂に居を構えます。1935年6月、赤坂区表町(現:赤坂7丁目)に転居し、戦争が激しくなる1944年まで暮らします。ベストセラー作家として不動の地位を確立した『宮本武蔵』(1936-1939)、大長編『三国志』(1940ー1946)の2大巨編をはじめ『親鸞』(1938)、『新書太閤記』(1941ー1945)などの代表作がこの地で執筆されます。

病魔と戦い原稿用紙に向かった最晩年

最晩年の1958年から1962年に亡くなるまで、都港区赤坂新坂町(現:赤坂8丁目)で暮らし、1960年の文化勲章の受章の知らせを受けたのも赤坂の自邸です。しかし1961年の春から体調を崩します。

夜々烈しい咳痰に悩まされて睡眠も浅く、異状ただならぬ容体をひそかに思う(自筆年譜)

1958年1月から“毎日新聞”に連載を続けている大河小説『私本太平記』の執筆を病魔に冒されながら最後まで続けます。

九月、『私本太平記』の完結。あといくばくもなし。一日一回の稿も身を削るの思いをなす。厠に立ちては中二階の階段をはうて机に戻る有様に至る。血痰も日ごとに濃く、疲労はなはだし。食欲、体重すべて減る

1961年、痛み止めの注射を受けながら毎日新聞に連載した最後の大作『私本太平記』(全13巻)を書き上げます。完結するや医師の手術の奨めを振り切り「読者が愉しみにしているから」と、もう1本の連載小説『新・水滸伝』を書き進めます。『三国志』に続く“中国古典の集大成“として意欲を持って取り組んだ作品ですが、遂に力尽き未完に終わります。

余儀なく今月は短章に終わる。読者諸氏の寛恕を乞う

読者を大切にした吉川英治が、『新・水滸伝』の愛読者に向けた最後のメッセージです。吉川英治は、自分の仕事に最後まで渾身の力を振り絞りました。1961年10月、肺癌の手術を行います。手術は成功し12月31日に赤坂の自邸に戻ります。

しかし癌は転移し、1962年9月7日に物語を書くことに人生を賭けた、自作『宮本武蔵』で描いた求道者のような70年の生涯を閉じます。家族に向けて

ヨ ク ナ ル

と書いた4文字が遺言となりました。

吉川英治の遺志

吉川英治の遺志を継承する作家に贈られる吉川英治文学賞が制定され松本清張(1909-1992)、池波正太郎(1923-1990)、井上ひさし(1934-2010)、伊集院 静(1950-)、北方謙三(1947-)、宮部みゆき(1960-)、大沢在昌(1955-)ら当代の娯楽小説作家が受賞しています。吉川英治の没後10年の1972年に吉川英治文学賞を受賞した司馬遼太郎(1923-1996)は、吉川英治が亡くなった当時「明治以来、その作品がこれほど多くの人にその作品がこれほど多くの人にいないだろう」と追悼文に記しました。

参考資料
 

吉川英治『宮本武蔵』(講談社)

吉川英治『三国志』(講談社)

吉川英明『父 吉川英治』(講談社)

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)