永井荷風住居『偏奇館』跡 六本木1丁目

永井荷風(1879-1959)。作家、文化勲章受章者

耽美にして無頼。2つの顔を持つ永井荷風

永井荷風は、谷崎潤一郎(1866ー1965)とともに明治から昭和の長きにわたり耽美派を代表する流行作家として文壇を牽引します。

永井荷風は1905年にアメリカ、1908年フランスを外遊し、『あめりか物語』(1908)と『ふらんす物語』(1909)を発表します。しかし『ふらんす物語』は発禁処分を受け、1915年に刊行されます。その後、1920年の大逆事件を契機に、耽美的傾向から一転、反時代的姿勢を貫いた思想と生活を貫きます。

“ペンキ”をもじって命名した「偏奇館」

1920年に荷風は、現在、泉ガーデンタワーが建つ六本木1丁目(当時: 麻布市兵衛町)の一角に木造二階建ての洋館を新築します。外壁に“ペンキ”塗装を施し“ペンキ”をもじって自ら「偏奇館」と命名し、独り隠棲的な暮らしを始めます。「偏奇館」 は1923年の関東大震災の際も無事でした。谷崎潤一郎は震災を機に、関西ヘ移住しますが荷風は東京で暮らし続けます。『つゆのあとさき』(1931)、『墨東綺譚』(1937)など荷風の代表作は、この地で執筆されました。

1945年3月10日の東京大空襲で、青年期に放浪した国 アメリカのB29が投下した焼夷弾により「偏奇館」は焼失し、荷風は鞄一つで焼け出されます。36歳で二度目の離婚をしてから独身を通す荷風は、晩年は千葉県市川市八幡で過ごします。

1957年、市川市八幡に土地を購入し、12坪の家を新築し、独りで暮らします。1959年4月29日、馴染みの食堂で天丼を食べた後、帰宅して、欲30日に、独り世を去ります。

超高齢化社会で脚光を浴びる荷風のライフスタイル

さて永井荷風が世を去って60年が経過しました。いま日本は、超高齢化社会を迎えています。誰もが最後は、独りだけの老後を迎える可能性が高い今日、永井荷風はシンプル&シンプルライフの先駆者として脚光を浴びています。

余既に餘命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず

1917年9月17日から死の前日の1959年4月29日まで40年にわたって書き続けた日記文学の傑作『断腸亭日乗』には、冒頭から墓の準備、遺産整理など身辺整理に勤しむ様子が綴られています。

四月二十九日。祭日。 陰

が『断腸亭日乗』に書かれた最後の文字です。荷風の死後、

一、余死する時葬式無用なり。死体は普通の自動車に載せ直ちに火葬場に送り骨は拾うに及ばず。墓石建立亦無用なり。新聞紙に死亡広告など出す事元より無用

一、葬式不執行の理由は御神輿の如き霊柩自動車を好まず、又紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環を嫌うためなり

という生前の永井荷風の意思に反し、文壇での業績が讃えられ天皇陛下より祭祀料を賜り、文化勲章を飾った祭壇で葬儀が行われました。墓も建立され荷風は、雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)に眠ります。

1963年には、永井荷風が生前、遊女たちの薄幸の生涯を悼んで訪れた浄閑寺(東京都台東区)に、筆塚が谷崎潤一郎らによって建てられました。浄閑寺では、毎年命日である4月30日に荷風忌が行われています。

参考資料
 

永井荷風『摘録 断腸亭日乗』(岩波書店)

永井荷風『墨東綺譚』(岩波書店)

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)

荒俣宏『知識人99人の死に方』(角川書店)

港区産業・地域振興支援部『港区歴史観光ガイドブック』(港区)