浅野内匠頭終焉之地 新橋4丁目

浅野内匠頭長矩(1667-1701)

かつての師走の風物詩『忠臣蔵』

1702年12月14日、大石内蔵助(1659-1703)ら47人の浪士が、吉良上野介邸に討ち入りました。芝居、映画、テレビドラマ、小説でお馴染みの『忠臣蔵』で有名な「赤穂浪士の討ち入り」です。

“白い雪に陣太鼓の音”。ひと昔前までの師走の風物詩といえば『忠臣蔵』でした。テレビや街には、1964年に放映されたNHK大河ドラマ『赤穂浪士』のテーマ曲が流れ、毎年、新作スペシャルドラマが放送され、そのキャスティングが話題になりました。

『忠臣蔵』を若い世代は知らない問題

ところが最近、ネット上では「忠臣蔵』の季節に「『忠臣蔵』を若い世代は知らない問題」が俎上に載ります。「四十七士」、「赤穂」、「吉良」が読めない若者も少なくありません。

『忠臣蔵』の認知度が年々低下しているのは、テレビ離れが加速し、ドラマが制作されなくなったことも要因の一つでしょう。

映画の世界では、2019年11月に『最後の忠臣蔵』(2010)以来、久々に『決算!忠臣蔵』が公開され反響を呼びました。

それでも日本人に愛される『忠臣蔵』

さて『忠臣蔵』は、元禄14年3月14日、江戸城松の廊下で赤穂藩主 浅野内匠頭長矩(1667-1701)は、吉良上野介(1641-1703)に斬りかかったことが事件の発端です。刃傷の理由については、様々な推測・憶測が取り沙汰され真実は謎に包まれています。

浅野内匠頭は、殿中にて取り押さえられ、その日のうちに、芝愛宕下にあった陸奥一関藩主・田村右京太夫建顕(1656-1708)の屋敷にお預けの身となります。時の五代将軍 徳川綱吉(1664-1709)は、「喧嘩両成敗」の法を無視して、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の改易を即決します。

吉良家には何らの咎めも受けず、一方的に浅野家は後に廃絶となったことから、後年、主家を失った赤穂浪士による討ち入りを招くことになります。

「喧嘩両成敗」を無視して浅野家は、お家取り潰しの上に主君は切腹、一方の吉良家は、お咎めなし。しかも吉良家は権力者である徳川幕府に近い立場です。「権力に近い者は多目に見られるのか」という庶民の怒りの声と、艱難辛苦の末、志を同じくする47人の元武士が本懐を遂げた事件が“日本人の精神性”に合致し、この史実を元に創作が行われ、歌舞伎などで演じられ人気を博しました。

しかし赤穂浪士の討ち入りを、そのまま取り上げることは、徳川幕府の権力批判に繋がるため、時代設定を置き換えて上演していました。『仮名手本忠臣蔵』は、室町時代に舞台を据えています。

遺恨の場所は、話題のスポット 新虎通りの一角

虎ノ門と新橋を結ぶ新虎通り。開発が進むこのエリアは、虎ノ門ヒルズに象徴されるビジネスだけでなくグルメやカルチャーのスポットとしても注目を集めています。新虎通りと日比谷通りが交差する新橋4丁目交差点脇にあるのが「浅野内匠頭終焉之地」の碑です。

その碑には、浅野内匠頭の辞世の句とされる

風さそふ 

花よりもなほ我はまた 

春の名残をいかにとやせん

が刻まれています。

行列ができる地元“新虎”エリアの銘菓

浅野内匠頭が切腹をした田村屋敷があった場所に、店を構えるのが1912年創業の老舗和菓子店『新正堂』です。1990年に発売した『切腹最中』が大ヒットし、地元を代表するお菓子として人々に愛されています。発売前は「“切腹”なんていうネーミングはとんでもない」と3代目のご主人は、猛反対されたそうです。

参考資料
 

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)

池宮彰一郎『四十七人の刺客』(新潮社)

港区産業・地域振興支援部『港区歴史観光ガイドブック』(港区)

新正堂菓子「切腹最中」しおり