“財界総理”石坂泰三の慧眼 「新時代の夜明けを開くマーケティング」

石坂泰三

高度経済成長へ

1960(昭和35)年、池田内閣は「所得倍増計画」を発表。池田勇人首相は「私は嘘を申しません」と、国民に豊かな未来を約束します。

所得倍増政策は、経済成長率を9%前後で持続させ、10年間で国民総生産・国民所得を、ともに倍増させようという政策です。

経団連会長の石坂泰三は、池田内閣の所得倍増政策を支持します。日本の経済成長は、予想を越える10.9%平均で推移し、経済大国への道を歩み始めます。

1967(昭和42)年、経済企画庁は、経済白書「能率と福祉の向上」を発表しました。

日本経済は、戦後めざましい発展をとげ,国民総生産1千億ドルの経済規模に達して、米ソにつぎ英独仏と肩を並べるにいたりました。

経済は、昨年後半期に景気後退から完全に立ち直り、新しい発展の段階を迎えつつある。
(原文ママ)

昭和42年度 経済白書「能率と福祉の向上」刊行のことば

日本経済はいまや人口1億 、国民総生産1,000億ドル、輸出100億ドルの規模に達し、その経済力も著しく充実されてきた。

(中略)

経済は、昨年後半期に景気後退から完全に立ち直り、新しい発展の段階を迎えつつある。

(原文ママ)

昭和42年度 経済白書「能率と福祉の向上」はじめに

そして遂に、明治維新から1世紀を迎えた1968(昭和43)年。日本の国民総生産は、アメリカに次いで世界第2位となります。

わが国の国民総生産は,昭和25年(1950年)には240億ドルで自由世界第7位であつた。その後、昭和30年(1955年)には191億ドルでインドを抜いて第6位、35年(1960年)には430億ドルでカナダを抜いて第5位と着実に順位が上昇してきた。そして、43年(1968年)には1,419億ドル(速報)と、西ドイツを抜き、アメリカについで第2位になつた。世界貿易に占める割合も、25年の1.5%から、いま(1968年)では6.2%に達している。

(原文ママ)

昭和44年経済白書「豊かさへの挑戦」

石坂泰三の蒔いたマーケティングの種は、見事に開花し、アメリカに一矢を報います。

石坂泰三が持ち込んだ大量生産大量販売を促進させるアメリカ型マーケティングは、日本型経営と呼ばれる終身雇用、年功序列の雇用システムと融合し、日本の驚異的経済成長を支える原動力となります。

消費者の旺盛な購買意欲を喚起させる宣伝戦略は国内の内需拡大に貢献し、品質と価格に強みを持つ家電製品や自動車は、海外市場を席捲します。

日本製品に刻まれた”MADE IN JAPAN”の文字は、終身雇用・年功序列により、短期間では身につかない高度な技術を、時間をかけて習得した熟練技術者の”モノ創りの力”の証しです。

日本の繁栄に貢献した石坂泰三

経団連会長として4期12年に渡り辣腕を振るい”財界総理”と謳われ政界にも影響力を及ぼす存在となった石坂泰三。

「いいですか総理」と時には首相に意見し、蔵相には「もう君には頼まない」と啖呵を切り、官僚には「君たちはこんな税金の遣い方をしているのか!」と一喝します。

2020(令和2)年。石坂泰三が世を去り45年を迎えます。そして2度目の東京五輪開催の年でもあります。

1964(昭和39)年の東京五輪では、石坂泰三は東京五輪資金財団会長に就任し、資金面を強力にサポートしました。

1970(昭和45)年に開催された大阪万博の万博協会会長の役職を81歳で引き受けます。著しい発展を遂げた日本を世界に発信する自らのキャリアの集大成です。

「成長した日本経済の姿を国の内外に堂々と展示したい」という一念で、開催日厳守、事故防止、汚職根絶、赤字を出さないの4つをモットーに奔走します。

建設業界の談合体質にメスを入れ、シンボルマークも「インテリだけがわかるものでは駄目だ。大衆性が大事なんだよ」と専門委員会のコンペ入選作にダメ出し。現行の桜のデザインに変更させます。

マーケティングの重要性を認識した“トップマネージメント視察団”の渡米から15年、石坂泰三は大阪万博を6,000万人を越える動員と200億円の黒字で成功に導きます。日本が繁栄を謳歌した裏には、“財界総理”石坂泰三の多大な功績があります。

新たなイノベーションを興すために

バブル崩壊後、「失われた20年」と呼ばれる経済の長期停滞期期から脱することができない日本。

マーケティングの神様、P・F・ドラッカー(1909-2005)は著書『実践する経営者』の中で「先が見えない時代においてはすでに起こった変化を検証するが大切である」と説いています。

いま一度、石坂泰三ら偉大な先人たちの歩んだ足跡を振り返ることが、新たなるイノベーションを興すための道標となるかもしれません。

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