石坂泰三(1886-1975)
実業家・第2代経済団体連合会(経団連)会長
財界総理と謳われた男
経団連会長として4期12年に渡り辣腕を振るい“財界総理”と謳われ政界にも強い影響力を及ぼし、日本の繁栄に貢献した石坂泰三。東京五輪、大阪万博の開催にも尽力、日本の高度経済成長時代の中心人物として活躍しました。
マッカーサーを跳ね除ける胆力
昭和20年9月15日正午、GHQにより接収された第一生命館。当時、第一生命社長であった石坂の使っていた社長室をマッカーサーが引き継いで使いました。
マッカーサーはこの立派な建物の主人であった石坂に会ってみたいと出頭命令に近い要請を出しましたが、石坂は「俺は行かねえよ。用があるなら、こっちに来ればいいんだ」と要請を断ったというエピソードが残っています。
戦後、公職追放された石坂泰三は浪人でしたが、追放が解かれた後、昭和24年より名門・東芝の社長に就任し、再建に尽力。その手腕と実績で財界の重鎮となります。
マーケティングを必要とする時代へ
昭和30年。自由民主党と日本社会党による“55年体制”が確立された年。日本にとっては戦後復興と朝鮮戦争の軍需景気に頼らず、独自に経済成長をしていかなければならない新しい時代の入り口を迎えます。
第一生命館の接収からちょうど10年後の昭和30年9月、石坂泰三が会長を務める日本生産性本部は“トップマネージメント視察団”を立ち上げ、自ら団長としてアメリカの産業界を視察に向かいます。
アメリカをつぶさに視察した石坂は「アメリカの企業は顧客を大事に考えている。これからの日本はマーケティングが重要になってくる」と帰国後にコメントします。
石坂のコメントに呼応した産業界は、直ちにマーケティングを研究します。
もはや戦後ではない
石坂泰三が訪米した翌年の1956年7月、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表しました。
消費者は常にもっと多く物を買おうと心掛け、企業者は常にもっと多くを投資しようと待ち構えていた。いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。
(中略)
もはや戦後ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。
(原文ママ)
昭和31年度 年次経済報告 結語
ここまで日本は、アメリカの庇護のもと民主化の道を歩み、朝鮮戦争の軍需景気にも助けられました。事実上の戦後復興の終了宣言です。
また、復興を果たした達成感と、今後の成長への不安が伺われます。これからどのような経済成長を目指していったらいいものか?次の方向を模索します。
マーケティングは経済成長の道標
石坂泰三の慧眼により導入されたマーケティングが経済成長の道標となります。
“アメリカのような大量生産大量販売を実現するために、どのように作り、どのように売るか?”日本企業の挑戦が始まります。
「いま売っている製品を永久に売るということでは駄目で、先を見越して新製品を作ることが必要なのだ」この年、経団連の会長に就任した石坂泰三は、市場調査・製造販売・広告宣伝など一つ一つのプロセスの研究実践に取り組む企業をバックアップします。
メーカー、流通業、広告界はそれぞれの立場で、熱い情熱を傾倒し知恵を絞りマーケティングを日本に根付かせました。
アメリカ型マーケティングと日本型経営の融合
消費者にとって白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫は消費者にとって憧れの家電製品でした。「3種の神器」と呼ばれ新しい生活のシンボルとなります。
新製品の開発、効率的な生産方式の導入、販路開拓などマーケティングの力は消費需要を喚起しました。たゆまぬ企業努力により大量生産と低価格化を実現し「3種の神器」は著しい普及を成し遂げます。
積極的な設備への投資が、消費需要を喚起し新たな投資を呼び込むという好循環を繰り返します。1960年代半ばにはカラーテレビ、クーラー、自動車の「3C」が、次の消費のシンボルになります。