マスメディアの巨人 正力松太郎

正力松太郎


正力松太郎 (1885〜1969) 読売新聞社長・日本テレビ放送網社長・読売ジャイアンツ初代オーナー

正力松太郎の人生を変えた虎ノ門事件

1923年12月27日、当時、摂政宮であられた昭和天皇(1901-1989)が帝国議会開院式に向かう途中、虎ノ門交差点で無政府主義者の難波大助(1899-1924)に狙撃されます。帝都を震撼させた、この「虎ノ門事件」で、時の山本権兵衛(1852-1933)内閣は総辞職。警視庁警務部長の正力正太郎も引責辞職しました。「虎ノ門事件」は正力松太郎のその後の人生を変え、日本のマスメディア史に大きな影響を与えます。

瀕死の新聞社を再建 5年で4倍の発行部数を達成!

1924年、正力松太郎は新聞界に身を投じ、経営難にあえぐ『読売新聞』を買収し38歳で第7代社長に就任します。社長就任後、5万5000部と低迷を続けていた部数は、1926年に9万部弱に増え1930年には22万部に達しました。5年で4倍の部数増です。

大衆を動かした販売戦略とは?

正力松太郎は、どのようにして大衆の心を掴み新規購読者を獲得したのでしょうか?その答えはマーケティングの代表的な手法である「返報性の原理」です。

「返報性の原理」とは“他人から何かの恩恵を施されたら、自分も何らかでお返しをしなくてはならない〟という人間社会にある行動原理です。

正力松太郎は「春の博覧会」「夏の納涼大会」「秋の菊人形大会」など紙面と連動した魅力的なイベントを企画・開催します。

これらのイベントの無料入場券の配布を未購読者に行い、アプローチしていきます。イベントの入場券を受け取った相手は「新聞を購読しなくちゃ悪いよな」という心理が働き、同時に購読を勧められた新聞も購読するようになります。こうした手法で「読売新聞」は飛躍的に部数を拡張します。

さらに野球人気に目をつけた正力松太郎は、1931年と1934年に“日米野球”を開催します。1934年の大会にはベーブ・ルース(1895-1948)の来日を実現させ「読売新聞」の存在感を高めました。

大衆の心を掴む紙面作り

正力の紙面方針は、徹底して大衆受けのする新聞を作ることでした。正力は毎日、編集局に顔を出し、記者たちに「大衆の好む新聞を作れ! 紙面を派手にせよ!」と檄を飛ばしました。見出しもキャッチーな文言を求め、写真の選定や大きさにも口を出したそうです。

「読売新聞」は、政治・経済面のみならず大衆の好むスポーツや囲碁・将棋など娯楽面を充実させることで競合紙との差別化を図りました。

プロ野球の父 テレビの父

1934年には『讀賣巨人軍(大日本野球倶楽部)』を創設し日本にプロ野球を定着させました。『讀賣巨人軍』は、「読売新聞」の部数拡張と“広告塔”の役割を担うスポーツ・マーケティングの先駆けです。

戦後は、1953年に、初の民間テレビ局『日本テレビ放送網』を開局。街頭にテレビを設置し、テレビの普及に尽力します。

正力松太郎は、大衆のニーズを常にキャッチし共感を呼ぶマーケティング手法で、瀕死の状態にあった読売新聞社を世界最大の部数を誇る新聞社に成長させました。さらに日本にテレビという新しいメディアを根付かせ、1969年10月9日、読売ジャイアンツが5連覇を達成したリーグ優勝の日に84歳の生涯を終えました。

参考資料

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)

佐野眞一『巨怪伝』(文藝春秋)

有馬哲夫『原発・正力・CIA』(新潮社)

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