昭和100年 力道山と赤坂の深い縁

赤坂に描いた夢 日本のラスベガス

2025年は昭和100年。昭和のヒーローといえば力道山です。力道山は赤坂ゆかりの人物でもあります。

力道山は晩年の3年間を赤坂で過ごします。力道山は、赤坂を「日本のラスベガス」にしようという壮大な構想を抱いていました。

1960年、力道山は赤坂台町(現在の赤坂7丁目)に高級アパートリキアパートを建設します。最上階の8階に自ら新婚の敬子夫人(1941〜)と住むことに決めます。このアパートには道場と合宿所も併設され、後にプロレス界を牽引するジャイアント馬場(1938〜1999)とアントニオ猪木(1943〜2022)もここで修行を積みました。

相撲からプロレスへ

今日のプロレス界の基盤を作り上げた立役者 力道山の人生は、実に波乱に満ちています。日米開戦の前年の1940年、日本統治下の朝鮮から本土に渡り、大相撲の二所ノ関部屋に入門。その後、10年にわたる力士生活を経て、1950年に相撲界を引退しプロレスに転向します。

1951年、サンフランシスコ講和条約が締結され、1952年には日本の占領が解かれ、再建に歩みます。この時期、力道山はアメリカに渡り、プロレスを学びます。そして帰国後、1953年に日本の小さな団体を一つに統一し、日本プロレス協会を設立。政界、財界、興行界、相撲界、さらには裏社会の有力者たちを巻き込み、プロレスの興行、選手育成、スポンサー獲得、テレビ放送権の管理までを一貫して手がける垂直統合型ビジネスモデルを確立しました。力道山は今日のプロレス界の基盤を作り上げた立役者です。

テレビを駆使してプロレスを拡大

1954年2月19日、力道山はベン・シャープ(1916-2001) マイク・シャープ (1922-1988)のシャープをアメリカから招き、柔道王木村政彦(1917〜1993)とのタッグで対戦。NHKと日本テレビが中継し、街頭テレビが設置された新橋駅前には2万人が集まったといいます。

力道山はプロレスを広めるために、新しいメディア、テレビを活用しました。1950年代から1960年代にかけて、テレビ放送はプロレスの人気を一気に拡大させ、力道山の試合は家庭のお茶の間にまで届きました。

突然の死 謎に包まれた最期

しかし、力道山の人生は突然終わりを迎えます。1963年12月8日、東京オリンピック開催の前年に、赤坂のナイトクラブ「ニュークォーター」で村田勝志(1939〜2013)に刺され、7日後の12月15日に亡くなります。

もし力道山が存命であったなら、今日のプロレス界も赤坂の街も、また違った顔を持っていたことでしょう。

赤坂に残る足跡

赤坂通りを赤坂小学校に折れてまっすぐ進むと、「インペリアル赤坂フォーラム」というマンションがあります。ここが力道山が住んでいたリキアパートがあった場所です。その隣には、亡くなる直前の1963年10月に完成した分譲マンションリキマンションがあります。リキマンションは、現在も現存する力道山ゆかりの唯一の建物です。

また、リキマンションのすぐ近くには、大相撲史上最高勝率を誇る伝説の力士・雷電為右衛門の墓もあります。力道山の死後、ジャイアント馬場は、赤坂に近い六本木で全日本プロレスを、アントニオ猪木は青山で新日本プロレスを興し、プロレス界は新たな時代を迎えました。

プロレスのドラマ性と力道山の影響

プロレスは、結末があらかじめ決められたエンターテインメントです。この事実をアメリカで学んだ力道山はストーリー性を重視しました。ベビーフェイスとヒールの対立や裏切り、復讐、仲間との絆などドラマティックな要素を描くことで試合そのものがドラマとなり、観客を物語に引き込む要素となったのです。感情的に巻き込む要素を生み出しました。

力道山の人生は、まさに「プロレスそのもの」のように、数々のドラマティックなエピソードに包まれています。相撲からプロレスへの転身、プロレス日本一を賭けた木村政彦(1917〜1993)との遺恨試合、死の真相、そして力道山亡き後の日本プロレスの内部分裂、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の確執といった出来事は、いずれも映画『羅生門』のように、多様な証言や解釈が交錯する謎に満ちています。

進化し続けるプロレスとメディア

現在、日本は経済不況の中で、プロレスの興行規模も縮小傾向にあります。東京ドームなどでの大規模な大会は減少していますが、それでもプロレスは根強い人気を誇っています。

そして、メディアの進化により、プロレスの発信方法も大きく変わりました。2025年、アメリカ最大のプロレス団体WWEは、プロレスの中継番組「ロウ」をNetflixで世界中に配信を開始しました。インターネットを通じて、世界中のファンがいつでもどこでもプロレスを視聴できる時代が実現しました。

プロレスは、時代の鏡とも言える存在です。現在では、男子レスラーと女子レスラーが対戦することも当たり前となり、多様性の時代に合わせて進化し続けています。力道山が作り上げたプロレスのエンターテインメント性は、今日のプロレス界にも深く息づいています。